長柄山の夜雨 大橋乙羽
想ひ起せば七年の昔語となりぬ。俄に思立てる事ありて、寺崎廣業氏が湯島の宿を立出でたるは、一月二日の正午なり。都大路は。注連縄引渡して松竹飾れる門に、娘子供の羽子つく音の勇ましく礼客の腕車の威勢よきも他所に見すて、両国橋まで急ぐ。ここより千葉通ひの馬車にうち乗りて。市河の渡を舟にて越す。鴻の台より真間の弘法寺を見めぐり、麓に下りて手古那の社に詣づ。こゝに継橋の古跡あり。その根に年古る石碑立てり。元禄九年に建つるものにして、文に『継絶興癈、維文維揚、詞林千歳、万葉不凋』とあるも嬉しく、それよりして一帯の松風、利根川の縁につづくも美くしきに、野は冬枯の景色ながら、一夜明けての何となう春めけるも興あるままうかうかと時刻を過して、また馬車にうち乗り、舟橋、検見川を越し夜に入りて千葉に着く。加納屋といふに泊りて、酒に暖をとりて臥しぬ。
翌朝は、早くより車を飛して茂原町を行き見しに、思ひし程にはよき町ならで、見るべき景色もなく、楽しむべき風物だにあらず。我は肝癪を起して、その次の夜の明るを待ち兼ね、東京に帰らんとす。土地の人など頻りに我をなだめて、その町より半里ばかりも距ちたる武田某の家に伴ひぬ。ここは県下に名だたる豪農なれば、珍らしき書画もあり、盆栽なども数多くあるに半日を送りて、主人の款待の酒に酔ひ、止めらるるを聞かず、その家を立出で、東帰の途につきぬ。
袂時計だに持たぬ頃の血気に任せて、その家は飛出したれ、未だ半里と歩まぬ中に日は暮れかかりたり空は曇りて雨降らんとす。足は靴摩れのして痛さに堪えられねば草鞋とかへてそを洋杖の先にくくりつけ兎角してまた半里も進みぬ。夜に入りて雨は颯と落ち来りぬ。宿るべき家はなく、路は春泥海の如くにて、進退これ谷まりぬ。如何にせむと躊躇たれどこの暗き山路を誰一人夜行くもののあるべき。陰々たる木下の山気、梢をなぐって吹く風の音に戦と身震ひして耳を澄せば狐の声の遠く聞ゆあり。
我は靴を半巾もて腰に結び下げ、洋杖を測量器に代へて泥の浅さ深さなど心あてに探ぐりつ漸々にして小山を越したり。なほ行くに小村あり、堂の脇には一本の杉立てり、其処に人の気色するにぞ、近づきて闇より声をかくれば、彼方も我を渡りに舟とや思ひけむ、問はるる此方もその長柄山に行くのなり。ここを下らば村あるべし、共に行かむといふ。我も文無しの窮措大追剥につかるべき資格あらぬ身の世に怖いものは無く、安心の地に居れば他を疑ふの心も起らで、斎しくその道を辿り、つひに長柄山に着き、その村外れの木賃宿に道連れの六部と共に宿りぬ。座敷といふも名ばかりの部屋に通されて、六部の男と合宿の気軽さ、小暗の行灯の下に寝転びて旅の物語などす。風呂は立直しのなれど、汚きを厭ひ給はずばありといふに、さらばとて浴するに、竈の下を焚す男あり、火吹竹もて頻りに火を吹き煽しぬ。風呂は五右衛門とやらいふのなれど、下より漸うに沸く心地よさに、我は掛灯の紙に『ぬるければ竹あつければ梅客あるを松』杯冗書せる。田舎にも、風雅はあるものよと独り興に入りつつ、火を焚く男と一ツ二ツ談話などするに、彼は人力車夫にて、明朝千葉に帰るものなりといふ。我はそれ欲しき折なれば、相談は忽ち纒りて湯を出るや、飯くひ寝に就き、翌朝は未だ明けぬにこの村を立ち出でぬ。
二村三村ばかり越して天明けたり。小金ケ原を越し浜村を過ぎて千葉に着きたり。ここよりは馬車なれば、乗りて直ちに東京に帰りぬ。此夜紅葉館に開きたる硯友社の新年宴会に列なりぬ。その旅の小遣帳は左の如し。
(一月)二日 | |
四銭 | 湯島より両国迄人力車 |
三十五銭 | 千葉まで馬車代 |
三銭 | 途中茶代 |
一銭四厘 | 市川舟賃 |
十銭 | 加納屋茶代一人分 |
二十銭 | はたご一ツ |
六銭二厘 | 酒代二人分 |
三日 | |
三十五銭 | 千葉より長柄山迄人力車一人分 |
三十銭 | 同所より茂原迄同 |
八銭 | 茂原中食一人分 |
四銭五厘 | 茶代一人分 |
二十銭 | はたご一ツ |
三銭五厘 | 酒一人分 |
二銭 | わらじ一足 |
十四銭 | 長柄山はたご |
六銭 | 茶代 |
五日 | |
四十銭 | 長柄山より千葉人力車代 |
五銭 | 浜村茶屋玉子湯代 |
四銭 | 巻煙草ぱいぷ一ツ |
三十五銭 | 千葉より馬車代 |
二銭 | 途中茶代 |
五銭 | 舟橋名物切山椒代 |
六銭 | 両国より神田迄人力車代 |
以てその質素なりしを想ふべし。