明治四四年(一九一一)九月に創刊され、大正五年(一九一六)まで発刊されていた雑誌「青踏」は、平塚雷鳥(朋子)の首唱により、女性のみの雑誌として、文学団体「青踏社」から発行された。女性の才能を伸ばすためには、まず偏見にみちた旧道徳から女性を解放しなければならないという先覚者の集りであったが、それだけに世間から好奇心をもって眺められた。このなかからは野上弥生子・神近市子・岡本かの子・山田わか・伊藤野枝などの以後も活躍した作家・評論家が輩出したが、この運動に参加した女性の一人が、この長柄の地に没している。池田紫光といい、淡路島の出身であり、上野の横山泰次郎氏の後妻となって一時千葉に住み、のち夫と郷里に帰ったが、道脇寺に仮寓してそこで歿したという。学生のころに、千葉に居た当時の横山氏夫妻を知っていたという大和久忠敬氏(町史委員)の談によれば、よく神近市子や、大正大震災のとき大杉栄と共に惨殺された伊藤野枝、平塚雷鳥のことなどを語っていたという。「青踏」にも発表しているというが、全冊を精査したが、池田紫光の名は見出せなかった。あるいは他のペンネームで発表しているのかも知れない。これらの自覚した女性たちは、ジャーナリズムに活躍した人たちを除けば、世間から白眼視され、比較的不遇な生涯を送った女性が多い。池田紫光は本名も没年もまだ明らかに出来ないが、その一人であろうか。