寒川鼠骨と文学碑

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この長柄の地を訪れた文学者があるいは有ったかも知れないがそのあとを明確に辿るものがない。わずかに桜谷の仲村多治見氏の招きによって訪れた俳人寒川鼠骨ののことなどが筆録せられており、その文学碑も現存するので、仲村昇氏の文集『清閑集』(昭和四六年刊)によって以下記述したい。
 寒川鼠骨は明治八年(一八七五)松山に生れ本名は陽光(あきみつ)、京都の旧制三高に学び、碧悟桐の影響を受けて俳句を始め、明治三一年(一八九八)新聞「日本」に入り子規に師事、晩年の子規の病床に侍してもっとも愛された。子規歿後は句作に熱意をやや失ったが写生文・紀行の分野で活躍し、また『子規全集』を刊行、昭和三年(一九二八)以降、師の子規庵の保存につとめ、特に戦災により消失した子規庵を復興してそこに住み、師の顕彰に余生を捧げた。桜谷の仲村氏宅を訪れたのは昭和一九年の秋であったが、その時の句に、
 
 宿酔に熟柿もぎ吸う朝の山
 星あかり坂のぼり来て新酒宿
 勿体なや乱菊見つつ朝風呂を

 
 などの俳句があった。二一年の秋にも再度仲村氏宅を訪問。その時の句に
 
 汽車にして立ちてめし喰う秋のくれ
 そこばくの稲かけ干せり袖垣に

 
 という作があった。鼠骨は昭和二九年八月、八〇才で子規庵に歿したが、その後この再度にわたる来訪を記念して、仲村氏の前庭に前掲の「宿酔に」の自筆の句が建立された。長柄町所在の文学碑として著名である。
 

寒川鼠骨句碑

 

左,寒川鼠骨・右,仲村氏