俳句は古来より日本のみの文学として今日まで伝統を守り続けられて来た。本町においても明治初期、中期に最も盛んであった。当時俳句の修業はなまやさしいものではなかったようだ。まづ先生の門を叩き、雅号をもらい、次に庵号を貰い、庵号披露をし、最後に宗匠として立机を許され、立机披露をして初めて一人前の宗匠として、他人の句を選ぶことができるようになる。現在でも一部にはその伝統を固守するむきもあるが、一般には俳誌結社に入ってその主宰する先生の指導でやがて同人と言う扱いを受ける程度である。
さて長柄町俳句会がその名を挙げたのは、勿論町村合併後で、その以前も三地区に僅かにその名をとどめるほどの句会が催されていたようだ。現在のような組織的、計画的態勢をととのえたのは、昭和五十一年からである。
月例会年一一回、町文化祭行事の俳句大会は一一月中菊花展示中旬に行うよう秋楽会とお互いに提携して行っている。他市町村俳句会との交流と町内中学校生徒諸君の情操教育的に昭和五二年度文化祭より参加句を投句してもらいその句数すでに二千五百句にも及ぶ。極めて優秀な作品が毎年選句され広く句集により発表している。
現俳句会の概要は後で述べることとし、往年の本町俳句の変遷について地区的にこれをあげてみよう。