花甫連は伝統も古く俳人数も多かったというのは、立地的に「師」旦凌庵貢谷に近く、宗匠より立机を許された先生も多く、明治の初中期には、旦柳庵大塚如由、旦岡庵鶴岡鶴水、普及庵大田笠山の宗匠がおりその指導のもとに、多くの俳人が傑出したからである。
明治の末期、大正、昭和の初期になると、如由の子「九如」鶴水の子「雄哉」旦唳庵高橋松雄、旦山堂加藤月萃春風居加藤柳丈の如く立机を許された俳人が多く、正に花甫連の黄金時代であった。連員にも温厚堂袋年、長生堂柳居、前川梅花、池座芳花、篠原喜風などすぐれた俳人が多い。大正、昭和初期には、鶴水の子雄哉、松雄の子聞天、柳丈の子柳笑、月萃の子喜泉、野崎米哉、鶴岡浴舟、渋谷吾風、高橋竹嶺、大熊清谷、鶴岡桂雲、鶴岡春陽、鹿間香月、大塚愛山など俳人としてその名が知られている。なかんずく鶴岡雄哉は指導者として尽力したが、昭和三十七年五月死去した。旦柳庵如由の辞世に、「我として風面白し散る桜」がある。
なを笠森寺本坊には、南総俳士記念の額(昭和二六年四月、花甫連鶴唳会、千年連、花月連)と今一面は鐘楼改築記念の額(昭和四五年一〇月)とがあり、これらには水上地区俳人の句がある。
なお観音堂に二三面の献額があったが、復元工事の際取り片付けられて今はない。また刑部八重垣神社には日露戦々勝記念献額がある(明治三九年奉納とある)