蛙声会の結成されたのは、いつ頃か詳かでないが、長柄地区には古くから俳句が大変盛んであった。上野の熊野権現神社には、天保三年四月奉納の掛額がある。句数六三、奉納者は、桃香、桃雨、桃二、(以上山之郷)栄駕、如扇、緑寿、(以上上野)とある。
百五〇余年前のものとは思えぬほど、はっきりと読み取ることができる。又千代丸の面足神社には、明治三十七年冬日句数六六、東鳴の掛額がある。達筆で文句も鮮明である。
明治初期中期、山根、力丸あたりにも多数の俳人がいた。梅塢、三千雄、渓風、喜風、耕雲、鈴鳴、酔石、嘯月啓文、等で皆立派な俳人である。おそらくこれが蛙声会の前身であると思う、蛙声会は長柄地区及び旧二宮本郷の俳人達により結成されて、千葉県内はもとより、東京方面までも交流繁く、粒揃いの句達者だったと思われる。特に有竹庵畠山三千雄は山根区別所の人で本名敬造、素封家の生れ、博学で村長その他村政に尽し大正一四年五月二五日卒した。黄昏亭梅塢は山根飯尾寺の住職卒時は詳かでない。夜来庵林風雨は千代丸の人、本名平、東京で医学を修めるかたわら俳句の研究につとめ、帰郷後は俳句一筋に生き、県内は勿論、東京にも知られ、その右に出る者はなかった。昭和一三年一二月一六日卒、庭前に「東から月の出て居る日永かな」の句碑がある。
栗原兼斉は国府里の人、本名兼蔵長い間教職にあり、氏の教えを受けた人は多数に上り九〇才の高齢をもって昭和三七年四月四日卒、吉井玉城は上野妙典寺の住職、合併後長柄町俳句会の指導者でもある。