南総千年吟社(旧日吉地区)

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日清日露の戦争で俳句は全く衰微し、花甫連の旦聞庵雄哉、花月連の花凌庵英峯、日吉地区の文墨軒日精、高仲三徳の数名にすぎなかった。しかし先輩の指導もあって、大正初期に南総千年吟社が産声をあげた。
 全員が若い者だったので、急速に進歩発達し、人数においても、その作品においても他を圧してすぐれていた。即ち東京の四世鶴庵宇楽宗匠に師事した、泰鶴庵渡辺瑞穂、愛鶴庵斉藤楽月、正鶴庵田辺荊香等は、立机まで許され、前田光波、渡辺緑枝、墨田東里、渋谷吾風、加藤暁声、廻谷暁村、秋山嘯月、高橋静泉、加藤喜泉、高橋聞天秋山秋月等皆師家より庵号の授与をされている。大正一五年八月、瑞穂、楽月、荊香の三氏により、師家夜鶴庵を直接招き、東京同門の俳人、県下の俳人百余人を集めて盛大な立机披露句会を挙行した。この頃が千年吟社の最盛期で、これが昭和の初期まで続いたが、その後物故者も多く、日華事変、大東亜戦争の始まるに及び衰微しはじめ終戦の頃には、その極に達したものである。終戦後に残った者は、加藤喜泉、秋山秋月の二人にすぎない。次に千年吟社物故者の俳歴を記してみよう。
 文墨軒前田日精、本名義三、小榎本の素封家に生れ名望高く日吉村長、村議員等を歴任村政に尽した功績は非常に大きい、昭和二八年八月一四日八十才で没した。
 泰鶴庵瑞穂、本名渡辺泰一、鴇谷の人で千年吟社随一の俳人であり特に古文学の造詣深く、昭和四年八月十六日死去「衣更へてさて吾老いし悔かな」の句がある。
 正鶴庵荊香、本名田辺正八、小榎本の人、山越英峯氏の義弟、幼少よりこの道に入り勉学につとめ逐に斯道の奥義を極めた、昭和五年一二月一三日三八才の若さで歿す。円寿寺の墓石に次のような脇起俳諧連歌が刻まれている
「桐一葉思案に余る刹那かな」
 愛鶴庵楽月、本名は斎藤秀次、鴇谷の人、名望家で日吉村助役を長くつとめ現職中死去し村葬を以て葬られた。昭和二六年一月一一日卒六四才「忙中の閑を故山に柚味噌かな」の句がある。なお墓碑には、日輪寺住職、永井僧正の頌徳文が書かれている。「明治二一年三月二五日生乙次郎長男農事に努め養蚕業の改良普及に功あり、後村政に尽力特に大戦前後の混乱に処して温雅真摯なる性情よく信望を集め、執務十有二年表彰を受け遂に助役現職に倒る衆哀悼して村葬の礼を以て報ゆ、趣味俳諧「年二つ若返りても春寒し」日輪寺四十二世権中僧正義猛誌」
 養鶴庵緑枝、本名渡辺広吉、長南町の生れ、後鴇谷に住み自転車業を営む、幼少の折東京に出て勉学し、佐藤紅緑に師事しその実力は彼の右に出る者なく、無慾恬淡で一茶を思わせるような人柄であった。「どぶろくや醒むればもとの素寒貧」と詠むかと思えば、「女語らず柳の糸を結びつけ」という艶かなる句や「草庵の寂や芭蕉に濺ぐ雨」など客観的、生活、花鳥、風月とあらゆるものを自在に詠み、名吟も数ふるに限りがないほどである。加藤喜泉、秋山秋月などと、南総鉄道開通記念俳句大会、刑部村上邸俳句大会などを主催した、昭和十九年六月八日五十五才で歿した。日輪寺にその墓がある。
 朝鶴庵蓬莱、針ケ谷の人、本名墨田朝信、若くして鶴門に入り東里を蓬莱と改名し、南総千年吟社のメンバーとして活躍し、後東京に出て一層俳句を研究し、埼玉県の獅子門宗家紅面庵富宝の門に入り、見竜居東里と号し中央俳壇に名を知られている。昭和十六年十一月二十五日継号允許並に立机を許された。大東亜戦争により郷里針ケ谷に帰り後輩の指導に尽した。昭和三十五年一月六日歿。
 加藤喜泉、旦山堂月萃の子、本名喜之、金谷の人、千年吟社発足とともに鶴門に入り斯道に精進し、旧水上村合併後の長柄町の行政、経済に尽した功績は多大である。一時入院闘病して退院する際の句に「秋晴や病棟を出る車椅子」がある。
 秋山秋月、本名茂雄、鴇谷の人、喜泉と同時入門、旧日吉村および合併後の村政に尽した。公職を一切辞したその前書の句に「草深く沈みて風の蛍かな」の句がある。又鴇東青年館の九十句に及ぶ掛額は、昭和四十五年に氏の寄贈によるものである。その他、前田光波、加藤暁声、渋谷吾風、高橋聞天、秋山嘯月等物故し、隆盛を極めた千年吟社も、尾羽うち枯すに至ったのである。
 また桜谷、仲村多治見氏宅玄関前に、明治、大正、昭和の中央俳壇の巨匠である故寒川鼠骨の句碑がある。昭和二四年鼠骨先生が仲村宅に一泊されて「宿酔に熟柿もき吸う朝の山」「於巽山荘」と自筆したものである。おそらく貴重なものとして後世に遺るであろう。なお戦後、前田晋羅先生が、愛弟子徳増の石和田靖栄氏を訪ね、その折徳増円覚寺で句会を開き、終って有益な講演があった。これら鼠骨、晋羅の来町などは特筆すべき事柄の一つであろうと思う。