木曽の所属と当地方の関係

1 ~ 4 / 922ページ
関ヶ原戦前後の領主の交代と支配体制の確立について述べる前に、木曽の所属と当地方との関係その他の事項を文書に現われた順に列記して、中津川地方と木曽との関係をみる一つの基本としたい。
(1) 古代において木曽谷は、美濃国恵奈郡中の一郷であった。
(2) 中世に至って、木曽義仲(一一五四-八四)がその家士落合五郎兼行を木曽の上方口である落合に配置したといわれる(落合郷土誌)。
(3) 吾妻鏡=東鑑の文治二年(一一八六)の条に、大吉祖荘[木曽の北部]を年貢未納の信濃国の荘園中に「大吉祖荘 宗像少輔領」とあげており、木曽の北部は信濃国であった。
(4) 建保三年(一二一五)木曽義仲の妹、菊に[南木曽町史では「宮菊」]源頼朝より美濃国遠山荘内で与えられた一村は馬籠村であり、菊姫が帰依した同村の法明寺にあった大般若経一〇〇巻には「美濃州遠山庄馬籠村法明寺常住」とほとんどに記載されており、その中の一巻の年号が建保三年である。遠山荘時代に馬籠村が美濃に属していたことがわかる(市史上巻)。
(5) 観応三年(一三五二)この観応の年号は南北朝時代、北朝の用いたもので、市内千旦林八幡神社の木像一三体に記された銘も同じ観応三年である。同年小木曽荘地頭、真壁家八代政幹代として、光幹なるものがいた。この者が地頭代として常陸国から赴任してきたが、知行所が常陸にあり遠くて不便なので小木曽荘内に知行所をかえてもらった文書の中に、「略……美濃国小木曽庄下保舊田(しものほうふるた)の忍阿弥陀佛給分在家一宇[「田」五反]に相轉申す所也 子々孫々に至るまで 彼の田在家においては 一塵の違乱あるべかざる状 如件(くだんのごとし)
 観応三年壬辰一二月二十三日 光幹(花押)」とあって(木曽福島町史・南木曽町史・林政史研究)、南北朝時代における中津川地方と木曽の帰属を知ることができる。
(6) 享徳四年(一四五五)「木曽庄浄戒山 定勝禅寺」(定勝寺文書)とあって、真壁氏にかわって後の木曽氏が、木曽谷を領有するようになってから木曽荘と称しはじめたものであろう。
(7) 文正元年(一四六六)「美濃国慧那郡木曽庄萬祥山興禅々寺 住持比丘大檀那源之朝臣 干時文正元年丙戌霜月一日」(興禅寺梵鐘刻銘)。
(8) 天文一八年(一五四九)「信州木曽荘浄戒山定勝禅寺新鋳供鐘助緣若干願輪不亦偉乎銘曰 山色登楼対景濃 千釣大器響珍重 群生試聴斜容暁 醒夢聲々百八鐘 天文十八年己酉霜月十七日 住持比丘玉林聖賦誌之 大檀越源朝臣義在」。
(9) 天正一〇年(一五八二)三月二〇日 信長は木曽義昌の戦功を賞し黄金百枚及び腰物を与え、木曽の外に安曇・筑摩二郡を与えた時の文書に「信濃国筑摩、安曇両郡之事一色宛行候……略……次ニ木曽郷之義任当知行 聊可不有相違之条如件 天正十年三月二七日 信長(朱印) 木曽伊豫守殿」とあって、木曽が安曇郡にも筑摩郡にも属せずそれ以外であったことを知る。
(10) 天正一〇年(一五八二)「濃州恵那郡湯舟沢村 吉祥院照永……」(湯舟沢味噌野・坂巻家々系図箱表書)なお、享保五年(一七二〇)のものには、「濃州恵那郡木曽湯舟沢村」とある。共に湯舟沢村の帰属を示している。
これからあげる(11)~(14)は江戸時代に入ってからの文書であるが、木曽の所属に関係があるのでここにまとめた。
(11) 慶長五年(一六〇〇)小山において家康は山村・千村両氏らに木曽旧領の回復を命じ、それとともに木曽残住の旧木曽家臣らに次の文書でその内応を促した。「信州木曽中諸侍如先祖被召置之条 各存其旨罷出可致忠節候 猶山村甚兵衛 馬場半左衛門 千村助左衛門可申也  慶長五年八月朔日 朱印 本多佐渡守 大久保十兵衛 奉之 木曽 諸奉公人中」とあるが、これには信州木曽としている。
(12) 正保二年(一六四五)正保の絵図の調整であるが、この時は筑摩郡墨引きの外においてあって、美濃国恵那郡に属したか、信濃国に属したか明瞭でない。
(13) 寛文九年(一六六九)山村甚兵衛より尾張御領宛、木曽の所属について提出した書状によると、「然ハ御家中城侍在所持御書出候様ニと今度自公儀被仰出候付 当福島ハ濃州恵那郡之内ニ候哉 信州之内ニ候哉 先年絵図公儀ヘ上申候時分聞被成度候間得其意存候 当地興禅寺ニ有之候鐘銘ニハ恵那郡と有之候ヘ共 是ハ古ニ詮儀無覚束存候 木曽ハ信州之物と申唱 先年木曽絵図ニハ信州之内共 濃州之内共断書ハ不仕其地ヘ絵図指上申候 其節承及候ハ信州一国之絵図ハ 真田伊豆守殿 濃州一国絵図ハ岡田将監殿より一枚絵図ニ御認め 公儀ヘ上申由ニて殿様[尾張徳川家]御領分も美濃之絵図ハ将監殿[美濃代官]ヘ被遣 木曽絵図ハ伊豆守殿[松代城主]ヘ派遣候由承及申候然共聢(しか)と覚不申候 此段ハ其御地ニて如可申と存候 左と御座候ヘハ 木曽ハ弥信濃絵図に入可申と存候」とある。
(14) 寛文一一年(一六七一)山村甚兵衛より千村平右衛門への書状覚の中の触状に 尾州御国奉行に伺いたてたところ「木曽の儀信濃国中に相極候ヘハ」触状はそのまま廻すようにとの指示を与えているところから、この寛文の頃になると木曽は信濃国の中とはっきりしたのだろう。