応仁の乱から関ヶ原戦前まで

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(1) 文明五年(一四七三)応仁の乱に木曽家豊は、信濃国伊那松尾城主小笠原家長らと共に東濃に出兵し、大井・荻島[瑞浪市釜戸町]を陥す。
(2) 永正元年(一五〇四)七月 飛驒国三木重頼 木曽を侵す時に村井忠左衛門・中関大隅・沖田淡路[落合村在住]ら裏木曽の兵を率いて滝越に至って飛驒兵を狭撃した。この頃は木曽氏が裏木曽を占拠していたものであろう。
(3) 大永四年(一五二四)三月 小笠原定基苗木日比野の熊野神社を造営する。この頃苗木附近は小笠原氏の支配下にあったか。
(4) 天文年中(一五三二~一五五四)下条氏[伊那在住]湯舟沢・落合辺を占領すという。
(5) 天文一四年(一五四五)木曽義康 中津川にて戦うという。
(6) 天文二四年(一五五五)(弘治元年)春武田信玄信濃へ侵入し、一軍をわけて鳥居峠を越え藪原に陣す。木曽氏は大井の中関大隅をはじめ、中津川の丸山久右衛門、落合の沖田淡路等を招いて防禦の謀をめぐらした。これより先、天文一六年信濃国伊那高遠の城代、千村内匠の従騎に丸山久右衛門があり、後になるが、山村氏の中津川代官中に丸山久右衛門の名がみられる。これは同一人物で、大井の中関・落合の沖田と共に木曽氏に従ったものであろう。
 木曽考では、木曽義昌従士名に三士ともその地に住するとあるから、丸山久右衛門をはじめ、中関・沖田とも元来その地の土着郷士で木曽氏に随身したものであろう。
(7) 永禄八年(一五六五)織田信長 苗木勘太郎の娘(信長の姪でその養女)を武田勝頼に嫁がす。
(8) 元亀元年(一五七〇)上村合戦 苗木勘太郎 吉村源蔵など参戦し源蔵戦死する。
(9) 元亀三年(一五七二)武田信玄は山村良利(良勝の祖父)の功績に対し、安弘見[蛭川村]三〇〇貫を、山村良候(たかとき)(良勝の父)に対しては今後とも奉公するようにと、千旦林(せんだんばやし)・茄子川(なすびがわ)両地の中で三〇〇貫を与えた。
(10) 天正元年(一五七三)岩村落城、城主に秋山伯耆守晴近をおく。信長これに対して一八城を築く。
(11) 天正元年(一五七三)木曽義昌は原平右衛門を田立に置き、川上・坂下を調略する。
(12) 天正二年(一五七四)武田勝頼、神坂峠を越えて美濃に出兵、従う木曽義昌主力を以て阿寺城を攻む。木曽方の部将三尾五郎右衛門、その子将監奮戦するも父傷つき将監は父を背負いて退く。阿寺城主は遠山友忠(苗木城主)の次男友重で討死する。時に一九歳。この戦で中津川白山神社・千旦林八幡神社などみな戦火にあい焼失したという。
 勝頼は山村父子へ旧領(千旦林・茄子川)安堵状、島崎監物(木曽義昌従士)へ馬籠、坂下の内にて五貫文授与し木曽氏には美濃掌握を期待して関の附近で銭千貫文を約束した。
(13) 天正八年(一五八〇)甲州逸見清光寺の先住、照庵禅師[千旦林村大林寺の始祖]千旦林に留錫し禅洞庵をつくる。
(14) 天正一〇年(一五八二)三月 武田氏滅亡し木曽は木曽氏、苗木は遠山氏、岩村は森蘭丸と信長方の勢力下に定まったが、同年六月、本能寺の変で信長が死亡し、信濃国海津城にあった信長の家臣森長可は、この報に接し旧領(兼山城)へ帰ろうとした。苗木の遠山久兵衛、加茂の肥田玄蕃、久々利の土岐三河守、高山[土岐市]の平井頼母らはこれをよろこばず、その帰途を討たんとした。それにつけいって木曽氏が美濃へ出兵し、坂下西芳寺の大般若経及び涅槃(ねはん)像一幅を持ち来り、定勝寺に寄進したという(吉蘇史略)。
 又、苗木郷室住村の名前がみえる大般若経も定勝寺におさまっている。このように木曽氏の出兵、美濃兼山に入った森氏の勢力拡大と苗木遠山氏との争乱があった。
(15) 天正一一年(一五八三)五月 苗木城は森長可のために攻略せられ、遠山友忠、友政父子は浜松に逃れて徳川家康に属した。
(16) 天正一二年(一五八四)東濃四郡一二万石余を領して、秀吉につかえていた兼山の城主森長可は、この夏、長久手の戦で討死し弟忠政がその後を継いだが、慶長四年(一五九九)信濃国川中島へ移された。
(17) 天正一八年(一五九〇)木曽義昌は、下総国網戸(あじと)[千葉県旭市]へ移封され、木曽谷は豊臣氏の直轄領となり、犬山城主石川兵蔵光吉(備前守)を代官にあて支配させた。
(18) 慶長四年(一五九九)東濃四郡を領した兼山城主森忠政の移封に伴い、岩村城へ田丸直昌が入り四万石を領し、苗木城へは川尻肥後守直次が、一万石を領して入った。