天正一八年(一五九〇)は、秀吉の小田原北条氏征服の年で、奥州の伊達政宗も秀吉の支配下に入り、豊臣秀吉の天下平定が一応完了した年である。この年に徳川家康は関東へ移封(八〇〇万石)されている。木曽義昌もこの時、前項でふれたように下総国網戸へ移封され、永年にわたって木曽谷を支配した木曽氏が木曽より消えた。
その後は、秀吉は木曽を直轄地とし、尾張国犬山城主石川兵蔵光吉に管理させた。これは木曽が要害の地であること、良材の産地(当時、秀吉建立の京都大仏殿、聚楽第、大坂城などに木曽材は使用されていた)であったがためであろうと考えられる。
石川光吉は、福島でなく南木曽にあって木曽支配の任にあたったといわれる(木曽考)。彼が木曽谷中に布告した条々を次にあげる。
定條々
一 谷中置目之儀可為先規候事
一 先給人手作幷逐電跡式為地下人百姓與取こなし俵子如何程と仕是を可上候少も無沙汰仕間鋪候事
一 御材木並人足傳馬其外何様之儀成共用所於有之者手判可遣候其次第馳走可仕候若下代なと私として人足一人も召遣候事令停止候条得其意若いはれさる儀於有之者以書付可申事
一 村々問屋中公儀為用等在所中申付候事無油断可馳走候 私として非分之儀申掛候ハ成敗可仕事
一 地下人他郷江相越事堅以御朱印御停止候條若相越候族は何方に候共 在所聞届其地下人として可申上候若見かくし聞かくし候ハ其郷右同罪たるへき事
一 道橋損候ハハ早々作なほし往還心安様可仕候事
一 対百姓町人代官給人非分之輩於有之は以目安可申上候遂糺明可令成敗事
天正十八年九月三日
石川兵蔵 光吉 書判 (木曽福島町史)
石川光吉は代官として木曽に入ったが、木曽氏によって、木曽荘という名こそないものの実質的には一大荘園が形成されていただろうから、それを受けついで布告をしたものであろう。
材木のこと、人足伝馬のことなど木曽は他の荘園と異なり、穀物でなくして材木がその経済的要素であったことがうかがえるし、光吉はそれを生かして行政を進めようとしたものである。この立場は後に木曽が江戸幕府領となりやがて尾張御領となるが、江戸中期の享保の変革までつづいた。
石川光吉は、やがて木曽を去り下代を置いて管理させた。下代は、原藤左衛門、原孫右衛門、古畑十兵衛、神辺休安、原図書之助、山村道祐であった。これらの下代のうちで三留野より南の村は神辺休安、福島あたりは山村道祐であった。道祐は隠居名で、山村三郎左衛門良候(たかとき)が本名である。木曽義昌が関東へ移封された時、子の甚兵衛良勝(たかかつ)と共に関東へ赴任したがまもなく木曽へ帰り、石川氏の下代をつとめていた。