慶長三年(一五九八)に豊臣秀吉が死去してからは、徳川家康の威望が高まった。石田三成は、この家康の威望の高まるのを好まずこれを除かんと考え、家康が慶長五年(一六〇〇)夏、上杉景勝を征せんと関東へ下った機会をとらえて家康追討の挙兵をした。これを聞いた家康は関東の小山にて軍議し、自らは東海道を尾張へ向う道順をとり、子の秀忠に中山道を通って美濃へ出ることを命じた。この秀忠軍が進軍するコースの美濃は岐阜城の織田秀信をはじめ、東濃では岩村城の田丸直昌、苗木城は川尻直次の城代関盛祥、木曽は代官石川光吉(備前守)とも石田三成方であった。
家康は、本多正信、大久保十兵衛(長安)のすいせんを入れて、木曽義昌の子義利で改易となり、慶長のはじめから浪人となっていた木曽氏の旧臣、山村甚兵衛良勝(たかかつ)、千村平右衛門良重らに木曽谷平定を命令した。山村良勝らは直ちに檄をとばし、甲斐・信濃に散在する一族を急ぎあつめた。これによって松本の石川玄蕃允の下にいた山村八郎左衛門一成、川中島の森忠政にあった千村助右衛門重次、さらに石川備前の下にいた千村次郎左衛門良照、原図書之助、三尾将監らも内応した。
こうして、石川方の原孫右衛門、原藤左衛門が守る贄川の塞を破り、藪原、福島と進み、数日で木曽谷を馬籠まで確保した。木曽谷を平定した山村、千村など一族はさらに東美濃へ進出を許され、遠山氏の旧城である苗木城奪還をめざす遠山久兵衛友政(ともまさ)を助けて中津川に進出し、苗木城にいた川尻直次の城代関治兵衛盛祥を攻めた。関盛祥は木曽川を渡って伊那方面へ逃れたという。
なお、この山村、千村など木曽衆による旧領木曽谷の平定のおり、木曽にいた山村道祐はどうなっていたかというと家康方に通ずることを恐れた石川備前守光吉によって犬山城に招かれそのまま留置されていた。木曽衆立つという報を聞き、犬山城を脱出し錦織の村井孫右衛門らに守られ中津川に来て、木曽から攻めてきた子の山村良勝と落合十曲峠で出会い親子対面したという(木曽福島町史)。
関ヶ原戦後、家康は道祐、良勝の功を賞して美濃において知行一万石と木曽を与えようとしたが、この時道祐は辞して木曽は中山道の要衝の地であり、かつ良材の産地であるから、よろしく公領(徳川直轄地)となすべきであるとして辞退したという。家康はこれを入れて木曽にかえて美濃において六二〇〇石を加え、計一万六二〇〇石を与え、道祐を木曽の代官に命じた(木曽福島町史)。
木曽谷中代官之儀被仰付候 並材木之儀
木曽川飛驒川共如石河備前仕候時可申付者也
慶長五年十月十一日
家康 朱印
大久保十兵衛奉之
山村道祐
この朱印状の文言は簡単なものであるが、
(1) 木曽は徳川直轄地とし、代官に山村道祐を命じ、豊臣時代の諸制度を受けついで支配せよ。
(2) 材木については、木曽川その支流飛驒川を支配させたこと。
つまり木曽川水系の一円的な材木管理を命じたことなど重要な意味をもっている。道祐は木曽の代官になり、美濃における一万六二〇〇石の知行は、木曽衆で分配した。
これでは木曽を守り難かるべしと、家康は白木六〇〇〇駄を与えようとしたが、道祐はこれを辞して木曽は耕地少く米穀に乏しいところであるから、住民生業の資としてこれを下さいと願ったので、家康はこれを許し更に年々白木五〇〇〇駄を山村家に下附することとなった(木曽沿革史)。