苗木遠山氏と信長

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鎌倉時代のはじめより遠山荘の地頭として、加藤次景廉の嫡子景朝をはじめその子孫が美濃国に住み、遠山と名乗り東濃の東南部一帯から、木曽地方まで支配していた。この遠山一族のことは、上巻にくわしく記述したが、苗木遠山氏もその一族で興亡はげしい戦国時代を生き抜き、江戸時代を通し近世大名として、苗木領を支配しつづけた。
 このように苗木遠山氏が近世大名としてつづいたもとには、織田信長、徳川家康との関係を考えなければならない。苗木城は、木曽川北岸の標高四三〇メートル余、花崗岩の露頭をもつ山頂にあって、木曽の入口を扼し飛驒への連絡路をおさえる要衝として、遠山左近佐ともいう直廉の時代に築城されたものであろう[直廉の没年は元亀三年]。
 この直廉の室は織田信長の妹で、その一女は信長の命でその養女ということで武田勝頼に永禄八年(一五六五)嫁している。
 この関係で直廉は、信長勢力の木曽口・飛驒への備えとしてその家人的な働きをしている。この線上に位置づけられる威徳寺の合戦で勝利を得たが、その時の負傷がもとで直廉は死亡している。次の友忠(苗木久兵衛)は、飯場[飯羽間]の城主であったが、これを嫡子友信にゆずり、次男友重・三男友政とともに信長の命により明照(あでら)城[手賀野阿寺]に移り、信州木曽筋をおさえた。友忠の室は、信長の姪であり二男友重、三男友政の母であった。
 天正二年(一五七四)に甲州勢が東濃進出のおり、明照城も攻められた。この折、父子は固く守ったが一九歳の友重は戦死した。その後、信長の命で、友忠、友政は苗木城に移った。この二人は木曽の木曽義昌を織田方へつける働きもし、武田氏攻略に力をつくした。このように、苗木遠山氏は信長と結びついて近世大名化へと進んだが、岩村本家は亡んでしまった。

Ⅰ-1 上地よりみた苗木城跡