天正一〇年(一五八二)本能寺の変によって、信長が明智光秀に討たれてから事情は一変し、兼山城主森武蔵守長可に随身するよう秀吉から勧められたが、友忠、友政はこれを断わった(苗木伝記)。
これにより、天正一〇年八月、同一一年五月に、森武蔵守長可は苗木城を攻めた。友忠、友政父子は城を固く守ったがついに退城を決意し、夜陰に乗じて坂下方面から妻籠へ落ちていった。時に天正一一年五月二〇日であり、友政は二七歳であった。
友忠、友政父子は妻籠から遠江国浜松に行き、家康を頼りその臣菅沼小大膳に属していた。この地で友忠は病死する。それは天正一二年五月一二日であった。
友政は、天正一八年(一五九〇)の小田原の役の後には、榊原式部(康政)にお預けになり上野国館林にあった。
慶長五年(一六〇〇)石田三成の家康追討挙兵にあたり、家康は常陸国小山において軍議をもった。家康は、西上にあたり東海道と中山道の二隊に軍をわけた。東海道の諸大名は家康に味方したが、前述のごとく、木曽筋代官の石川備前守、苗木には城代の関治兵衛(城主川尻肥前守直次は、石田三成の恩義に感じて西軍に加わり大坂にあった)岩村城主田丸中務大輔直昌らは、いずれも石田方(西軍)についた。