家康は友政を召出して、美濃と木曽筋の案内について尋問したところ詳細に言上した。それによって友政は、鉄砲三〇挺、玉薬二万、黄金一〇枚を拝領した。
その上で「苗木、岩村両城へ向い城を請取るべき旨上意を蒙り候」と山村甚兵衛、千村平右衛門、馬場半左衛門、小笠原靭負らと共に、慶長五年八月八日朝館林を出発した(苗木伝記)。友政は、遠山次郎左衛門、奥田次郎左衛門、伊藤五郎左衛門、小倉猪右衛門、井口与三左衛門などを従え、これに陶山茂左衛門、纐纈藤左衛門が馳せ加わり、中津川、駒場筋を焼払い、瀬戸の渡しより旧城苗木城を攻め、城代関治兵衛盛祥父子を下し、上地渡しより退去せしめた。
こうして友政は、森長可に追われてから一八年を経て再び旧城を回復し、ここに遠山氏による苗木城支配が確立された。