田丸直昌と岩村開城

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森忠政の後には、石田三成の配慮(県史近世)により、信濃国川中島より田丸中務大輔直昌[阿木村誌稿では具安、県史では具忠]が岩村城に入り東濃四万石を領した。
 慶長五年(一六〇〇)石田三成挙兵のとき、田丸直昌は家康に従って関東の小山にあったが、石田三成の恩義に感じ、家康に願い出て同年七月二五日、小山の陣を去った。西軍に組するためいったん岩村城へ帰り、老臣田丸主水に留守を命じて大坂へ急いだ。田丸主水は、犬山の石川備前守光吉を援けて、中山道西上の徳川方の軍勢を妨げようと岩村本城の外、土岐[瑞浪市]と高山[土岐市]に砦をつくり備えた。
 一方、苗木遠山友政とともに徳川方として、旧領奪還を命ぜられたところの小里光親[瑞浪市]、遠山利景[明智町]らはそれぞれ旧領へ帰り田丸方に対した。こうして「東濃関ヶ原戦」ともいうべき戦が東濃一帯にくりひろげられた。これを列挙すると大略次のようである。
○ 慶長五年八月末 遠山友政、苗木城奪還
○ 同年八月一二日 田丸方兵三〇〇が、多治見、池田に出動、妻木家頼、父頼忠これを迎え攻める
○ 同年九月一日 妻木頼忠父子、田丸方の高山砦にせまる。田丸主水は高山砦を焼いて土岐砦へしりぞく
○ 慶長五年九月二日 小里、明知遠山軍、明知城を奪還
○ 同年九月三日 小里、明知遠山軍、小里城を奪還
○ 同年九月一五日 関ヶ原戦、東軍(徳川方)大勝
○ 同年九月一八日 徳川秀忠軍、東濃を無事通過西上
○ 同年九月二三日 東軍大坂城へ入る
○ 同年九月二五日 土岐砦 田丸方開城
 こうして残るは岩村本城のみとなった。東軍方は、苗木遠山友政を大将とした苗木勢五〇〇余、小里、明知勢三〇〇で城を囲んでいたが、城主田丸直昌はすでに大坂にあって降伏しており、田丸主水に開城を促す。主水もこれに応じて一〇月一〇日開城するが、その様子を阿木村誌稿によると、
「家康、苗木の遠山友政をして田丸を攻む。遠山民部、小里彦五郎らも与力となって攻む、十月九日友政の兵五百、阿木、飯羽間に陣す。小里、明知も兵三百余騎にて攻む。敵攻め寄せたりときき、櫓に登り城の南北を見渡すに旗ひるがえり軍兵充満せり、急ぎ櫓より飛びおり家士へ向って曰く、我防戦叶うまじ城を無事に明け渡し自ら髪を切って世を遁れんと、城中鳴りをしづめたり、時に友政、陶山次郎兵衛を使わして曰く、『家康公の命を蒙りて某、出向せり極力に城を渡し給へ』と、使者帰った後、田丸もとどりを断ち織物袴に一尺八寸の太刀を佩(は)き、家臣石部外記召連れ大手の木戸に出ず。友政も掦布の織物の袴に太刀を帯び、大手に出迎う。家臣纐纈藤右衛門は黒糸の鎧に鎖手織の鉢巻し、二尺八寸の太刀をかかえ供奉す。双方相近づいて田丸申されけるは『城渡し別議なし是より高野山に登るべし、永々の籠城に困窮して路用の貯なし恥入り候え共御助力を乞う。尚白昼の離散も面目なければ暮に望み退去致したし』と。友政公これを諾す。田丸城に帰り城中の男女悉く城を出ずべしと下知す。八十余人の女、童数旬の籠城に倦しかば悦□吾先にと東西に群りさまよう様見るも哀れなり、田丸主従三百、東に西に離散する。
 田丸一句認めて曰く
  武門栄耀暫時夢 業障輪廻報此期 堪恥衰弊零丁苔 誰知今日別離思
  岩村にたまるものとて雪ばかり
   消えもやせんと思ふわが身も
 
 友政の陣より纐纈藤右衛門出迎え路用として金五十両を出す。田丸落涙してこれをいただき、手に持つ薙刀をこれは田丸家代々の重宝なりと藤右衛門に与え西美濃まで案内させる。小里、明知、友政の三将城中に入るに、大広間に大将の物具、珍具、馬具の類山のごとく積みてあり。」と伝えている。
 東濃関ヶ原戦もまた東軍の勝利に終り、世は江戸幕府の開幕へと進むが、西軍方領主の多かった美濃国では大幅な支配者交代となった。
 岩村城には、翌慶長六年、父の代より徳川家に仕え小田原攻めで功をあげ、上野国那波一万石を与えられていた松平和泉守家乘が一万石加増されて入った。