墓石は高さ一・二m、幅五二cmのもので、碑面は中央に「空風火水地喝」の文字をほり、「月翁字清禅定門 十三回忌辰嵐讃岐 寛永三年初夏念日孝子八男建焉」とある。
この嵐讃岐については、阿寺城落城のおり(天正二年)焼きはらわれてしまった千旦林八幡宮の再建につくした人と伝えられるのみでくわしいことは分かっていなかった。
嵐讃岐の邸跡は、この所より西二〇〇m、山を背に、前に深沢川をひかえた通称「さぬきど」(現字沼尻)とよばれている場所にあり、今もそこには五輪塔一基が残っている。
Ⅰ-2 嵐讃岐の墓
小里家譜――小里光親の条に
九月三日(慶長五年)「夜ニ成リテ急ニ討テ 小里ノ故城ヘ入ル 遠山[明知遠山の遠山利景]モ又四日五日岩村ヲ攻ム 皆功在リ 玄却(和田玄却 後小里助右衛門 光親の伯父)光親又討テ出 所々放火シ 一日市場[瑞浪市土岐町]ニ陣取ル カカル所ニ田丸妹聟 福岡長左衛門 信州人嵐讃岐両人[濃州小里記には、早川三左衛門、嵐彦兵衛両人とあり]一所ニ成リテ神野ノ城ニ籠ルト聞ヘシカハ 玄却 光親則往キテ攻ム 城中強ク防グ故 味方ウタルル者甚ダ多シ(略) 其後遠山 小里ノ両将岩村神野ノ両城ヲ押ヘ公命ノ下ルヲ待居タリ」とある。
また、木曽山村家記録によれば、四代目山村甚兵衛良豊[良勝の弟]の室である霊光院玉室宗珊大姉[寛永一一年三月卒・福島長福寺]は、初代千村平右衛門良重の娘であるが、「御幼少之節 嵐讃岐江御預ヶ被成 濃州千旦林ニテ 御成長候由……」とある。
この二つより、木曽家の有力武将の一人嵐讃岐なる者が、市内千旦林に居を構えていたことが分かる。そして関ヶ原戦では西軍方に属して戦いに敗れている。