木曽衆の知行所

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秀吉時代は、木曽代官の石川備前守、森長可、忠政から田丸中務大輔の岩村、川尻氏の苗木と豊臣方の武将で固められていた東濃も戦後は一変するが、その支配の形式は以前のまま受け継がれたものと考えられる。ところで、中津川、落合、駒場、手金野、千旦林、茄子川の六か村は頂点に立つ支配者こそ一変したが、木曽氏以来この地方に縁の深い旧臣である山村、千村、馬場氏とその一族(木曽衆)が知行主となった。しかし、二知行主入相(あい)から、四知行主入相もあるというように非常に細分化された村もあった。
 慶長六年(一六〇一)美濃一国郷牒によれば、木曽衆の支配の村むらは次のようである。
一 高壱萬六阡弐百石余 木曽衆
  弐阡四百拾壱石参升 可児郡 見竹[上ノ郷のこと]
  阡参百四拾九石八斗四升 上ノ郷之内はさき村
  四百六拾九石壱斗 ひゑ村
  阡七百廿石九斗三升 久々利村
  八百四拾八石七斗八升 大森村
  四百八拾石七斗八升 恵奈郡 落合村
  阡参百六拾八石六升 なすび川
  阡参百参拾四石六斗参升 中津川
  七百七拾弐石 駒場村
  五百五拾弐石六斗弐升 仙田村(千旦林)
  八百七拾参石弐斗七升 正家村
  四百五拾六石五斗四升 てかの村
  七百八拾六石壱斗八升 可児郡 いきつし村
  百九石八斗弐升 土岐郡 大くて村
  千四百七拾弐石八斗五升 月吉村[日吉郷のこと]
  九百七拾参石弐斗 かへと村(釜戸村)
  百八拾壱石 はんはら村
  五拾石弐斗 寺川戸之内
以上壱萬六千弐百石余 拾八ケ村

 上記のむらむらで、次のように拝領した。
 三千石  山村甚兵衛 (良勝、山村道祐の子)
 三千石  千村平右衛門 (良重)
 千三百石  道祐隠居料 (山村良候、中津川村分)
 千六百石  馬場半左衛門 (旗本、主知行地釜戸)
 七百石  山村清兵衛 (三得)
 七百石  千村助右衛門 (重次)
 八百石  原 図書助 (政重)
 六百石  千村二郎右衛門 (重照)
 五百石  三尾将監 (長次)
 五百石  山村八郎左衛門 (千旦林三百石方としてつづく)  
 三百石  千村藤右衛門 (政利)
 三千弐百石  同心知  山村甚兵衛
       千村平右衛門
       (県史・史料近世一)

これを木曽衆ひとりひとりあてに、どの村でどれだけ領したか、中津川市関係分をまとめたのがⅠ-3表である。表から分かるように落合村は山村と千村と折半し、千旦林村は山村八郎左衛門の三〇〇石(村民は三百石方と呼ぶ)を除いて、同じく山村と千村で折半しているが、中津川村は山村道祐領(道祐隠居料)として拝領し、これを山村良勝が受けついでいるので、山村氏・千村氏の全体知行分ではこの中津川村分だけが、千村平右衛門(四四〇〇石)より山村氏(五七〇〇石)が多くなっている。
手金野村[手賀野]は、山村領として駒場村より分村したものであり、駒場村は一村 千村領である。一番複雑なのは茄子川村(一三六八石六升)で、はじめは山村、千村そのほか旗本馬場氏領をいれて八人の領主がいたが、原十郎兵衛ら五人分は尾張領に上知されて、四知行主となった。

Ⅰ-3 江戸時代の村高・領主(地頭)表(中津川市関係分)

・中津川市を構成する江戸時代の村は一二か村と三枝村、四新田村の一九か村よりなる。