美濃幕領を尾張領へ移管

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美濃国における関ヶ原戦後処理は一応終り、幕領では大久保石見守長安が総奉行となって各所に代官を置き処置させた。家康は、元和元年(一六一五)大坂夏の陣で豊臣氏を滅亡させての帰途名古屋城に立寄り、その子尾張領主徳川義直に木曽と美濃国において三万二〇〇〇余石を与えた。このことによって当地方の所領関係は大きく変動した。
 尾張領は徳川御三家(尾張徳川義直、紀伊徳川頼宣、水戸徳川頼房)の筆頭である。領主義直は家康の九男、慶長八年(一六〇三)甲府二五万石に封ぜられ、その兄尾張清州城主松平忠吉(家康四男)が、同一二年に歿して嗣子がなく断絶したため、代って義利(義直の幼名)はその年、清州城主となり、翌一三年(一六〇八)尾張一円の地を与えられた。しかし、その時義利はわずかに八歳であった。
 名古屋城は、慶長一五年(一六一〇)に起工され、同一七年正月に完成した。義利は元和二年(一六一六)四月、駿府より名古屋城へ移った。
 伊奈備前守忠次らが、慶長一三年(一六〇八)幕命によっておこなった検地によれば、尾張国の総高は次のとおりであった。
  一 惣高 四七万二三四四石七斗七升七合   村数 八二三ヶ村
 慶長一七年(一六一二)、木曽川大洪水のため美濃と尾張の国境が変化し、美濃国から木曽川左岸となった部分が尾張国へ移管され、加封でなく尾張領が増加した。その高は次のとおり。
  一 高一六六一石二斗四升
 さらに木曽川沿いの美濃国内の村々が尾張領へ加増された。その高と村名は次のとおりである。
 慶長一七年正月五日付の分
  一 高四三七三石四斗五升      羽栗郡竹鼻村外六ヶ村
 同年四月一日付の分
  一 高三二〇六石六斗四升五合    各務郡鵜沼村