義利(義直)は大坂夏の陣に出征して名古屋に凱旋(がいせん)したが、家康も大坂よりの帰途名古屋に立寄り前記のように、木曽川沿岸村々の内三六か村高三万二二八二石七斗五升七合を加封した。
木曽川沿いの村々を与えたのは、木曽川の水運を利用して木曽材を運材する、つまり木曽川筋一円支配のためであろう。これらのことを「源敬様(義直)御代記録」は次のように記している。
「大御所様(家康)名古屋御城エ着御逗留有之此節宰相様(義直)御途中迠御迎 御逗留之内御婚礼後日々御台所御費用之儀大御所様原田右衛門江御尋有之 一日黄金壱枚程之旨御答申上候処 駿府 羽州秋田 信州木曽之三ヶ所は運上(租税)一日黄金壱枚づつ之由ニテ木曽山被レ進レ之 且山村甚兵衛 同七郎右衛門 千村平右衛門
大御所様御前被二召出一木曽之地は宰相様ニ被レ進候間左様可二相心得一旨 乍レ然材木之儀は公儀(幕府)御用にて可二相立一旨被二仰出一之」とある。
又、事蹟録によれば元和元年八月一二日
一 濃州御領分左之通相渡候
先高合 三万二千二百八拾二石七斗五升七合
可児郡錦織村外拾五ヶ村(村名略以下同) 高七六四七石一合(木曽川湊山村預所)
加茂郡下麻生村外拾八ヶ村 高八四六二石六斗四升(飛驒川湊)
恵那郡付知村 高二八四石八升 (裏木曽三ヶ村遠山氏預所)
々 川上村 高一八〇石 ( 〃 )
々 加子母村 高一一八五石五升 ( 〃 )
々 大井村 高五一二石六斗四升(陸上木曽材番所、幕府直轄地)
武儀郡上有知村外二三ヶ村 高一万四〇〇四石四斗三升五合
とあるが、右の内、可児郡錦織村は木曽川流材の湊(網場あり、これより上流は一本流しの木材をこの所で網で受留め筏に組んで流し熱田に送る)で木曽代官山村甚兵衛の預所であったが尾張領に移され、その後もそのまま山村甚兵衛の管理するところであった。
裏木曽と呼ばれる付知、川上、加子母の三か村は良材を産するので、幕府直轄地として苗木遠山氏に預けられていたが、この時尾張領に移管された。尾張領では三か村に代官を置いて管理した。
大井村も木曽木材(白木)陸送上の監視所(番所)で幕府の直轄地として、代官岡田善同の管理下(元和二年美濃国村高御領地改帳)にあったが、これもまた同時に尾張領に移管となり、恵那郡中には幕府直轄地は表面上一村もなくなった。しかし、実際は恵那郡馬場山田村[山岡町の一部]が、「土岐郡馬場山田村」として一国郷帳に残った。
元和五年(一六一九)美濃国内の直轄領五万石が尾張領へ加増された。