親藩である尾張領には領主に加封された高以外に、後に将軍の命により附庸(ふよう)となった家臣の知行高がある。
普通に給人と呼ばれているのは、領主がその家臣に知行地を分与したものをいい、その知行高を給人高というが、ここでいう尾張領の給人は、幕府創立期に家康の直臣であったのが(多くは在地領主)後に尾張徳川家の成立とともに将軍の命により、その附庸となった人たちである。
これらの人は既に将軍の家臣として知行地を与えられているから、その知行地をそのまま持って尾張徳川家の家臣となったものである。このような給人が尾張徳川家には附家老成瀬隼人正以下木曽衆を加えて一三家あって、その高(給人高)が約五万石あった。
このような特別給人の外に領主が自身の領地をその家臣に分与した普通の給人があったことは勿論である。