天明七年(一七八七)一二月の話であるから、江戸時代も後半に入ってからのことであるが、山村家第九代甚兵衛良(たか)由が、尾州年寄役(尾張徳川家家老)に抜てきされ役料三〇〇〇石を下付せられ、寛政五年(一七九三)には、従五位下に叙せられ伊勢守に任じられた。この良由について、岐蘇古今沿革志に「当時の模様申伝へに諸侯方へ御見舞『山村伊勢守』と申時は門の半扉を開き、単に『山村甚兵衛』を以てすれば両扉諸共開きし由 これは伊勢守とは尾張徳川家の家老でも陪臣(将軍の家来の家来、即ち再(また)家来で将軍に御目見得は許されないのが普通)なり、甚兵衛とは旗本にても代々の格式あり一箇の幕府の直臣という差別なりと」とあるから、山村氏が幕藩両属の二つの身分格式をもち続けていたことがわかる。
山村家には、参勤交代ということはなかったが、将軍の代替り又は、山村家自身の家督相続には必ず参府御目見えをなし、又不時参府といって時々参府し御目見えをしている。