宝永二年(一七〇五)第五代甚兵衛良忠、子息良景参府御目見えの節に公儀御目付 陰山数馬が、山村氏について「各々御格式は御番頭(殿中警護に当る番衆の頭)同様に公儀極り有之候 勿論たれも差図は申しがたく有之候」と言ったというが、誰もさしずをしないというのは、家康の朱印によって与えられたものであり、他の者が何ともさしはさむことは出来ないという意味であろう。
又、沿革志には「交替寄合格と古人も色々申伝ふれ共 余(大脇自笑=山村家家老)は不信用也 木曽御代官と神祖の仰を蒙られたれば布衣(五位)以上御郡代の場合に比して宜敷候御家格と窃に存じ奉存候 公平の論は是等のことならんか 愚(岐蘇古今沿革史・武居彪)思うに外様の様にも御譜代の様にもあり畢竟何の格と心得よとの御差図も不被命幕府御目付陰山数馬殿の番頭格又道中も一万石の格とあれば幕府にて右は黙許の事ならんと考へたり………」。これによってみると、山村家は幕府番頭格で、道中は一万石の格式をもって通行を黙許されていたといえるようである。
[参考] 交替寄合格=江戸時代万石未満の封地をもち、隔年参勤交代をするもの、老中支配に属し、大体の格式は大名に準ずる。
更にもう一つ山村家の特殊性につき、それを証する記録として、「木曽宿助郷願の件」がある。