元禄七年(一六九四)に美濃には助郷制度が実施されたが、木曽は行われなかった。そこで人馬の通行が頻繁となり、常置の人馬以外に在郷諸村の人馬を徴発したり、美濃人馬の応援をもって充当して来たが、ついに正徳元年(一七一一)木曽にも定助郷制度実施を出願するに至った。山村家の家老大脇文右衛門は、贄川宿の問屋、藪原宿の問屋両人を宿総代として伴い出府した。岐蘇古今沿革志は次の如く記している。
木曽宿助郷願
大脇文右衛門木曽宿助郷願のため 幕府評定所(江戸城和田倉門外竜ノ口にあり 老中 若年寄 三奉行 大目付 目付にて組織する幕府最高裁判所)へ召出され 松平石見守様(大目付にて道中奉行兼役)仰られ候は 木曽は尾張殿御領分の由に候 いづれの国主御代官よりも其下の願には使者相添候処 尾張殿よりは左様の儀無之て甚兵衛より使者参候儀定めの様子可有之候へば呑込がたく候と被仰候ハバ文右衛門申上候は 御不審乍恐御尤至極に奉存候 是には訳も御座候間 御月番様かたへ罷出御用達衆へ具に可申達と申上候処 横田備中守様(大目付)此処諸事聞届の役所にて候何れも御揃一同に聞候ヘバ善悪事済に候 口上は長短によらずとくと申聞せ候様にも御側近くへ被召寄候
文右衛門口上
慶長五年関ヶ原御陣之節 将軍様(秀忠)木曽路御通行被遊度キ御評儀之処 其節木曽は大坂(秀吉直領)御領分にて 長き谷難所多く 其上百姓共鉄砲の心懸罷在 勿論苗木之城主関治兵衛 岩村城主田丸中務 犬山城主石川備前守後詰いたし罷在候処故 早速御旅行難被遊処 本多佐渡守様 大久保十兵衛様御取成を以て甚兵衛先祖御先手 下野国小山之御旅館にて 権現様(家康をさす)より御直に被仰付早速木曽中御手に入り 濃州の三城(苗木・岩村・明知)をも追ヒ落し申候
依之御知行被下置木曽御関所被仰付 木曽谷中も為恩賞御朱印を以て御代官被仰付 江戸駿府ヘ相勤関ヶ原御合戦之刻 台徳院様(秀忠)木曽路御通行被遊 甚兵衛宅ヘ被遊御止宿 御懇之上意にて 御手自ラ御腰ノ物頂戴仕候 其後木曽を尾張様ヘ被為進メ候ニ付 本多佐渡守様 大久保十兵衛様迠 甚兵衛申上候は 木曽を尾張様ヘ被為進メ候 木曽御代官差上申度奉存候 御関所之儀は御先手の依戦忠御預ケ被遊候ヘバ差上候儀 迷惑に奉存候と申達候処 其段達上聞両御所様(家康、秀忠)上意に 甚兵衛申上候段尤に被思召候 併乍(しかしながら)外(ほか)様ヘ被下候儀には無之御子様(義直)ヘ被為進候ヘバ御直領同意に候 殊に御朱印を以て御預り被遊候間 末末共に只今迠通り相守り候様にと被仰出候 尤尾張様よりも其段被仰付 数代不相替先規之通相守申候 御年貢 山方材木等之義ハ御領分故 尾張より役人被参取り扱ヒ 谷中村々公用万事表向押立たる事は 今以て甚兵衛より公儀へも申達シ尾州御役人へは有増(概略)申達候 右之訳故助郷奉願にて候度々使者差添候直に申上候と申候へば何れも只今迠不審に存候処 文右衛門口上にて安堵いたし甚兵衛知行同事に候様に候と被仰 二十日程過此度は御城へ被召出 右之御衆様御寄 助郷帳御渡し 私にも永々相勤苦労致候へ共 訴訟相叶満足可為本望甚兵衛殿にも宜申候様にと御懇にて及四万石之大助郷村帳御渡 被成候
これは、木曽宿の問屋衆が助郷制度を木曽にも実施してほしい、と幕府へ願出た時に、道中奉行が、どこの領でも下下(しもじも)の願いには知行主より使者が添ってくるのがしきたりである。木曽は尾張徳川領であるから、尾張の使者がついてくるべきであるのにそれは来なくて、山村甚兵衛よりの使者が参上しているのはどういうわけかと聞かれた時に、山村家の家老がその理由を道中奉行に伝えたものであるが、この中に木曽代官は朱印をもって家康から与えられたものであること、木曽が尾張領になってからも、「末末共に只今通」に代官、関所守をやれといわれ、幕領時代と同様に木曽のことは公儀へ申達していることなどを挙げているが、山村家の幕藩両属という特殊性がよくわかる。