千村平右衛門については、明治新政府へ提出した「由緒書」によって、山村家とやや違うが両属の特殊性が分かる。次にそれをあげてみる。
慶長八卯年為取締信州伊那郡ニテ高壱万石余 榑木山支配共 并遠州奥の山ニテ鐚成高千四拾三貫文余別段為手廻同国船明村初高三百九拾石余り被命 信州飯田ニ於て陣屋地并馬之飼料畑相賜右ニ役所相建幷遠州船明村も陣屋地賜候(中略)其後木曽谷の儀徳川家より尾張家江被差上候ニ付 福島関護 山村甚兵衛儀元和元卯年尾張ニ附属被命候節平右衛門儀如前々伊那郡村々幷遠州預所共支配罷在候処 甚兵衛 平右衛門先年同時に罷出候者ニ候間 平右衛門儀も尾張江附属候ヘと元和元年徳川二代将軍より被申渡 其節辞退ニおよび候へ共 将軍家より別段尾張家江被向平右衛門儀は 旧家之者ニ候間別格ニ被成置候様ニと直命之趣 本多佐渡守 土井大炊助を以被申送 終ニ尾張附属相成申候(中略)私家格之儀は 旧幕府老中支配ニテ代々美濃国久々利在邑罷在 旧幕府代替(将軍代替り)幷自分家督之節其外臨時参府ニハ表交替寄合並柳之間ニ相詰 太刀馬代幷毛氊進上黒書院或ハ白書院ニ於て謁見仕 帰国之節巻物賜フ其他毎年之季 進上物も仕且旧幕府代替幷自分家督之節共支配老中宿ニ於て誓詞仕候儀ニ御座候
とあり、尾張徳川家附属を辞退したが、尾張徳川家へ附いても別格であることを将軍直命としてきき、附属したこと。千村家は老中支配下で江戸城へ登城のときは表交替寄合で、柳の間に詰めること、将軍代替りや、千村家相続の時に参勤していることなどをあげている。つまり尾張徳川家に属してからも幕臣としての身分・格をもって務めていることが分かる。