尾張領は、知行高が同一、家格も同一でありながら実収入に差がある不公平をなくすることを考え、寛永一一年~二〇年の平均年貢高を調査して、村々に課する年貢の率=免相も十分の四=四ツになるように村高の伸縮をはかった。これは正保の「四つ概」と呼ばれ、尾張領行政上の大きな改革で、正保二年(一六四五)に実施された。(例えば、高一〇〇石の村で年貢高が六〇石とすると、その免相は六ツであるが、六〇石はそのままにしておき、六〇石が村高の十分の四=四ツになるように村高を逆に算出して「村高一五〇石」とするわけで、この場合は村高は一〇〇石から一五〇石だから伸びているが、縮んだ村もある。)
これをもとに、同時に家臣の知行地の所替えを行ったが、特別待遇の山村、千村とその一族は知行所を安堵された。つまり「四つ概」の適用を受けなかったわけである。
参考までに高概されることなく、知行所を安堵された者を列挙すると、
概無之如元被下候輩(○印木曽衆)
石川伊賀 干時大寄合
石川杢右衛門 干時御小姓頭
石川甚五左衛門 干時寄合
玉置小平太 〃
稲葉右近 大寄合
○ 山村甚兵衛 此節木曽出ト云 役儀未定
○ 千村平右衛門 木曽山
○ 原 十郎兵衛 〃
○ 山村清兵衛 〃
○ 千村助右衛門 〃
○ 三尾左京 〃
○ 山村善左衛門 〃
○ 千村次郎右衛門 〃
○ 千村十左衛門 〃
○ 千村九右衛門 〃
○ 原 新五兵衛 〃
以上寛永日記(尾張石高考)
というわけで、正保の四つ概しには山村・千村両氏とその一族の知行地は権現様(家康)より直接木曽衆が賜ったものである故に、これらの知行地は概高の適用を除外したものである。
従ってこの時、両氏及び九人衆の知行所の異動はなかった。