この事件は山村、千村両家が譲歩して、直接提出が認められ一応落着した(山村家留帳)。しかしながら、其後の双方の関係にすきまが生じてきた。そこで九人衆一同相談するに「当時こそ先祖の武をまのあたり聞き知る人も多くいて、家々の規模も立つが年月が過ぎるにつれて、千石に足らぬ悲しさで両家(山村・千村)の支配のようになってしまう恐れは多分にある。そうなっては両家に知行を減少される事もあるかもしれない、それでは先祖の名を汚し、家の名折れである。そこで尾張(名古屋)へ出て勤めようではないか、その勤めの功、不功によって領知が増減するかもしれないがそれは仕方がない、もし加増すれば家の大きな幸いだし、尾張領の御蔵入となれば一統の並とみられるし、その上次男、庶子が勤める願いを出すにも名古屋にいてこそうまくいくというものであろう。こうなれば家内繁昌の基ともなる」と一決して、寛文七年(一六六七)春、ひそかに尾張へ内達し、九人衆はそれぞれ名古屋へ引移り、普請組寄合に仰付けられた。
このようにして久々利九人衆は、久々利を去って名古屋へ移転したが、この移転について尾張表から誘いもあったようである。その状況を閏二月一六日(寛文七年)甚兵衛より平右衛門への音信に、「爰元久々利衆之儀昨十四日渡新左、小新左私宅へ参られ申渡候ハ 平右衛門 甚兵衛が願の通り承知したから 当地へ罷出て御奉公するよう 役は御寄合で江戸などへの御供や御使を致す様にと 寺尾土佐守殿 成瀬豊前守殿 同主計殿が土佐の宅へ久々利衆を呼出し申渡候 これは何共久々利衆も難儀ニ候 殊に病気すりきりにて御座候間笑止ニ存候」(山村家当帳)。
とあって、甚兵衛、平右衛門も承知したから罷出て奉公するように、役は御寄合で参勤の供をすることであるとしている。これに対して甚兵衛は「笑止ニ存候」とけなしている。