山村甚兵衛・千村平右衛門をのぞく木曽衆(久々利九人衆)の尾張徳川家の給人化について述べてきた。ところで苗木領では、江戸時代中頃に五〇〇石を幕府に上知することになった。
苗木遠山家第五代は遠山友由であり、その弟に友央がいた。友由の子友将が第六代苗木城主をついだ享保七年(一七二二)に友央は五〇〇石を分知された。しかし、第六代である甥の友将には子がなく死去したので、友央は第七代苗木城主を継ぐことになった。その時、先に友央が分知されていた五〇〇石を上知すべきであるとの幕命により、加茂郡の内、寺前村、大野村、佐見村などを幕府の代官へ引渡した。
ところが、この土地が本田、新田混在であったので、本田にかえて上知せよとの再命により延享二年(一七四五)改めて下野村のうちで五〇〇石を上知し、残り分を上野村へ編入した。これにより苗木領高は一万石となった。