三代  遠山信濃守友貞  寛永一九-延宝三年

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 幼名は久太夫、寛永一八年四月二日苗木に生まれる。同一九年五月、二歳で父の遺領を継ぐ。正保二年江戸城石垣普請を命ぜられる。慶安元年はじめて領内の宗門改めを行う。同年従前の諸村上納の馬飼料を免じ、また畳薦(こも)も免じた。
 寛文元年信濃守となり、同二年四月一八日はじめて帰城する。同一一年秋駿府加番を命ぜられる。藩祖以来の重要政策である新田開発において、友貞は犯罪人の処罰として荒廃地へ強制移住して開墾に従事させる方法を盛んにとった。当代の新田高は六二三石である。延宝三年熱海で病気湯治中五月六日に没す。享年三五歳。