一二代 遠山美濃守友禄  天保一〇-明治二年

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 友壽の三男として文政二年九月二日苗木に生まれる。幼名を貞次郎といい、後勘太郎と改めた。二兄が早世したため同一一年嫡子となる。天保六年刑部少輔に命ぜられ友祥(あき)といい、のち友禄と改めた。同八年豊前守と改め、同一〇年二月五日家督を継いで美濃守となり、幸橋門番、駿府加番を相ついで勤めた。
 先代の天保三年からの家中借り上げ期間は延長を重ねたが、天保一三年には在所・定府の別なく家中すべての全給与借り上げという非常手段を断行するにいたった。嘉永三年の倹約取締令で人減しがあり、小者を整理し、家中の役職を大幅に配置転換し、勤務兼帯をはかり、超過勤務をすすめることなどを規定した。
 万延元年一月奏者番となり、文久元年七月一五日幕府若年寄となり翌二年閏八月二五日まで勤役、同三年五月大坂警備を命ぜられた。元治元年一〇月一五日再び若年寄を命ぜられ、慶応三年六月一七日まで勤役した。慶応元年三月将軍家茂に随行して長州征伐に向かって大坂城に入ったが、翌二年八月家茂が没したので遺体とともに江戸に帰った。
 明治元年二月九日維新にさいし帰城する。同年三月飛驒梅村騒動の時、説得方を派遣し、また救恤米百俵を施す。翌四月一二日高山県知事梅村速水を保護する。この月二四日京都へ護送した。同年六月二三日苗木藩知事に任ぜられる。同三年八月から一一月にかけて廃仏毀釈を断行、同四年七月一四日廃藩となる。明治二七年四月四日七六歳にて没す。

Ⅰ-5 苗木遠山家墓地