○松平氏

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初代 松平乘紀(ただ)  吉十郎 美作守 能登守 兵庫頭 (父石川乘政・信州小諸にて二万石の領主)
 元禄九年四月大坂加番を命ぜられる。元禄一四年七月能登守と改め半蔵門を守る。元禄一五年八月美濃国岩村へ得替仰付けられる。同年九月岩村に転じ、二万石を領する。同年一二月御奏者番を命ぜられる。同一六年石川氏を本姓松平氏に復し、兵庫頭と改める。宝永元年一二月紀伊国上使を勤める。正徳二年一一月岩村に於て追鳥狩を始める。享保元年一二月江戸桜田邸にて没す。享年四三歳。
二代 松平乘賢  吉十郎 能登守
 元禄六年出生。享保二年家督相続。岩村領二万石。内新田高二〇〇〇石を致乘に分知。享保三年四月日光御祭礼に奉行となる。同四年奏者番。同八年三月若年寄役仰付られる。同一七年三月領内の百姓飢餓の者多きを以て貯米五百俵を出して之を救う。同二〇年五月西丸老中に任ぜられ、御加増一万石拝領、都合高三万石となる。新知一万石は駿河国と西美濃の両所飛地を拝領し、岩村より役人を派遣する。延享二年九月本丸御老中となる。延享三年五月八日江戸神田橋邸にて没す。享年五四歳。
三代 松平乘蘊(もり)  永之助 美作守 能登守
 享保元年老中佐倉領主松平左近将監乘邑の二男として出生。寛保元年正月養子となる。延享三年六月家督相続。能登守と改める。延享四年一一月翌春四月朝鮮使節来朝につき、近江八幡に於て接待役を仰付けられる。寛延四年四月日光山御名代を勤める。宝暦四年五月領内九〇歳以上の高齢者に対し各々米二俵ずつ賜わる。
 宝暦五年三月家中並びに領民に疫病除の薬剤を配与する。同八年一二月郡上八幡城主金森兵部少輔頼錦、宝暦騒動により城地没収改易に処せられるや郡上城請取の役を命ぜられる。当分同城在番の任に当る。同一二年一二月奏者番役に任ぜられる。明和六年五月、日光山小来川口勤番を勤める。安永二年一一月飛驒の農民が一揆を起し、代官所に迫り強訴した。時の代官大原彦四郎使者を以てその援を乞うた。直ちに高山へ兵をおくる。安永九年八月願に依って奏者番を免ぜられる。天明元年願に依り隠居する。同三年七月浜町の別邸に没す。享年六八歳。
四代 松平乘保  慥五郎 河内守 能登守
 寛延二年朽木土佐守玄綱の九男に生る。明和七年一二月乘薀の養子となる。天明元年四月家督相続。三万石を領する。天明二年大坂加番を勤む。同三年能登守と改む。同四年五月奏者番を勤む。同六年閏一一月日光山御名代を勤める。寛政一〇年七月西丸若年寄役仰付けられる。文化元年八月本丸若年寄を仰付けられる。同三年一〇月大坂城代を仰付けられ、役知として摂津国和泉国の内にて五〇〇〇石、美作国に於て五〇〇〇石、都合一万石拝領。
 同七年六月西丸老中を命ぜられ、侍従に任ぜらる。文政九年六月西丸下邸に没す。享年七八歳。
五代 松平乘美(よし)  幸之進 卓太郎 能登守
 寛政四年三月乘保の二男に生る。文政九年家督相続・岩村三万石の領主となり能登守と改む。
 文政一〇年八月大坂加番を仰付けられる。同一二年二月代官橋本祐三郎死罪。同一三年桜田御門番勤務。同年三月、家老丹羽瀬清左衛門は慶安御触書他を木版に附し領内に配布諭示す。六月には国産に関する意見書を発表して大いに国産奨励を行う。天保二年日光山御名代を勤める。同六年再び大坂加番を命ぜられる。この年領下に飢饉あり農民困窮する。同八年領下五二か村村役人連判歎願書提出して、不穏の空気があったので遂に丹羽瀬清左衛門を免職蟄居を命じ、領民の要求を全面的に取入れて事をおさめる。天保一三年一月隠居す。弘化二年八月二日没す。享年五四歳。
六代 松平乘喬(たか)  宝千代 能登守
 文政九年九月乘美の二男として出生。天保一三年一一月家督相続。同一四年名を乘喬と改め能登守と称する。嘉永三年大坂加番を命ぜられる。同四年奏者番となる。安政二年七月没す。享年三〇歳。
七代 松平乘命(とし)  誠之助 能登守
 嘉永元年六月乘喬の長男として出生。安政二年九月、八歳にして家督相続。三万石を領する。万延元年能登守に任ぜられる。元治元年大坂城加番。同二年七月長州征伐に従軍、慶応三年奏者番となる。同年一二月奏者番を免じ陸軍奉行を免ぜられる。明治元年二月官軍に帰順して征東兵を出し東山鎮撫使に属す。同二年二月版籍奉還。同年六月岩村藩知事を命ぜられる。同四年二月東京府貫属を命ぜられる。同年七月藩知事を免ぜられる。
 明治一七年七月子爵を授けられ華族に列す。同三八年一一月東京にて没す。享年五八歳。