三代  山村良候 [三郎左衛門 七郎右衛門] 道祐

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 天文一三年生。義昌に仕える。木曽氏は元亀三年八月武田氏の催促に従い飛驒を攻めた。飛将江間常陸の逆襲を受けて苦戦となったが、良候は敵将檜田次郎左衛門を討ち辛うじてこれを撃退した。この功によって晴信より感謝状と美濃国に於て三百貫の地を賜った。
 天正一八年義昌が移封の時、良候は其子良勝と共に従い下総国網戸に赴いた。義昌が没した後、義利が所領を没収されると良候は良勝を残して木曽に帰り、三留野田屋に住み、薙髪して道祐と号した。良候は木曽の代官石川備前守に従って福島、岩郷、三尾、王瀧の下代を勤めた。
 慶長五年関ヶ原役が起った時、石川備前守は道祐が木曽にいて関東に通ずる事をおそれ、犬山城に招置しておいたが密かに脱出し、家康の命を受けて木曽に来ていた良勝と合した。
 関ヶ原の戦が終わった後、家康は道祐・良勝父子の功を賞し、美濃において知行一万石と木曽を与えようとしたが、この時道祐は木曽は中山道の要衝の地であり、また良材の産地であるから公領にするべきであると辞退した。家康は其廉直を賞して木曽に替え、更に美濃において六二〇〇石を賜り、道祐を木曽の代官とした。道祐は五七〇〇石を良勝とともに領知するだけであった。家康はこれを聞き、その小禄を以ては木曽を守りにくいと年々白木六〇〇〇駄を与えた。道祐は又固辞して木曽は耕地が少く米穀に乏しいから、住民生業の資としてこれを賜ることを願ったので、家康はこれを許し、更に年々白木五〇〇〇駄を山村家に下附することとなった。慶長七年一一月二〇日没。