四代  山村良勝 [甚兵衛 用齋]

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 永禄六年生。慶長七年家督、同一三年致仕。元和四年再家督、寛永六年致仕。良勝は初め父良候と共に木曽義昌に仕えた。天正九年義昌が小笠原貞慶と戦って敗退した時、良勝は古畑伯耆と共に殿戦をつとめて功があった。
 天正一二年豊臣、徳川両氏による小牧の役が起ると、義昌は徳川との盟約に反して豊臣氏と結んで木曽を塞いだので、徳川氏は部将菅沼小大膳、諏訪安藝守、保科越前守等の七〇〇〇騎の兵を以て木曽を攻めさせた。義昌は妻籠に城を築き、良勝を大将として三〇〇余騎を以て守らせた。徳川勢は城を重囲して攻めたが良勝はよく防ぎ遂に陥入れる事ができなかった。この功により良勝は秀吉より感謝状を賜っている。義昌が下総に移封の時、良勝は良候と共に従って行ったが、義利が所領を没収させられた後は、良候は木曽に帰り良勝はその地にとどまった。
 慶長五年八月石田三成が兵を挙げると、家康、秀忠父子は東海道、中山道と二手に分かれて兵を進める事となった。この時石川備前守は石田氏につき、下代の原孫右衛門、同藤左衛門をつかわして贄川に砦を築き木曽路を塞がした。家康は本多正信、大久保長安の建策により木曽家の旧臣山村良勝、千村平右衛門、馬場半左衛門を小山の陣所に召出して木曽路を開く事を命じた。
 慶長七年良候が没し良勝家督。翌八年八月幕府は福島に関所を設けて山村氏を守関に任じた。福島の関は箱根、荒(新)井、碓水と共に四関といわれる。同一三年良勝致仕して用齋と号し良安家督。
 慶長一九年冬、大坂陣の時、尾張徳川家祖義直も出陣したが年少のため家康は之に老功の武将を附した渡辺半蔵、兼松修理、戸田加賀と共に良勝も撰ばれて随従した。良安はこの時木曽の福島及び贄川の両関を守り、大坂夏の陣には千村良重と摂津国枚方を固めた。
 元和元年木曽は尾張領となった。同四年良安没し良豊は未だ幼なかったので良勝が命により再び家を継ぎ、寛永六年に至って致任した。寛永一一年八月三日没す。