五代  山村良安 七郎右衛門

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 文禄元年生。慶長一三年家督。慶長五年山村氏が木曽代官を命ぜられてから後も、木曽の山方、村方の諸政の規模は大体木曽氏、石川氏の時に出来ていたので、多くはそれを踏襲して際立った変革は行わなかったようである。併し次第に国内がおさまり、人心漸く落着くに従って良安は法令によって谷中の規則を定めた。
 慶長一三年五月「各村毎年可相勤條々之事」として定め書を出した。今日残るものは三尾、上松、岩郷、上田、黒川の五か村にすぎないが、この時木曽の村々全部に出た事は確かである。これは村々の米年貢高物成、役その他についての規定であって、従来の年貢米高、木年貢数量、物成役等が改正されたのである。この時改正された数字の総計は明らかでないが、これは慶長一八年の再改正の根拠となったものである。同一六年には各村置目を出している。村々により多少条項に変わりがあるが、大体三一か条より三八か条位であって、巣鷹、伝馬、道中取締、白木、焰煙、川狩、駒その他の心得等が列挙されている。
 慶長一八年山村家は駿府の命により木曽の成箇郷帳を作製して上書した。これによって木曽の年貢、米千六百八二石五斗五合、この代りとして榑二六万八千五八挺、土居四千三百五二駄を上納することになった。但し木曽には「高」がなく、従って村々の年貢納高は現石称あり高である。
 元和元年大坂夏の陣には、良安は摂津国枚方の守備を命ぜられたが、特に願って尾張勢に加わり天王寺口へ向かった。元和四年七月二四日没す。良勝の再家督となった。