慶長一一年六月一八日生れ。寛永六年家督。慶長一九年大坂陣の時、父良勝に従って上洛、二條城で家康に謁した。寛永一三年五月、虎岩半三郎という者が未明に関所にかかり、通行を求めたが許されなかったために、関所番を殺害した事件がある。虎岩の変として伝えられている特殊な事件である。
良豊はまた寛永一七年に村々へ置目を出している。正保二年四月一七日、福島の山村家屋敷全焼した。この火災によって山村家古来よりの記録類はことごとく灰燼に帰してしまった。尾張からは義直及び光友よりの見舞状と榑三万挺が贈られた。この火災は山村家の大難として挙げられる四保の難の一である。
四保の難とは、正保二年及び享保八年の山村家屋敷炎焼。享保九年の谷中検地。天保年中家事不取締にて尾張表の譴責を受けた事をいうのである。
正保三年三月、尾張表は山村家に騎馬同心四人、足軽四〇人を附給した。これは関所を守り、谷中を支配するために人を多く要するからである。しかし、山村家は俸禄少く家士が多かったから、人を以てしないで給与においてこれを附した。騎馬同心一人に付百石、この物成四〇石宛で四人分の米一六〇石、足軽一人に付四両三分宛四〇人分の金一九〇両の支給がそれである。
寛文四年、尾張徳川家は初めて谷中の巡見を行った。尾張より奉行を派遣して村々の実状、山林の調査等をなし、その結果によって翌五年に改革が行われた。即ち、従来山方村方共に山村家の取扱いであったものが、同年上松に尾張表直属の材木役所が新設されて以来、木曽の山林、木材に関する事は一切上松(あげまつ)役所の取扱いに移り、山村家の支配は村方のみに限定されることとなった。なお、一定の美林区域を留山に指定して、これを禁伐林としたのも同年の事である。元和元年正月一五日没す。