寛保二年三月六日生。天明元年家督。良由は山村家諸代の中で最も治績、学殖の傑出した人である。家督数年の後、石作貞一郎を尾張表留守居役より勘定役に登用し、多年紊乱した家財の整理を断行した。天明六年秋から翌七年秋にかけて、天下大いに飢え餓死する者多かった。木曽は最もその惨害をうけたので、良由自身各村を巡回して賑恤し、又一〇〇〇余人の饑民を尾張に送って労務に服せしめる等の手段を尽したために死を免れたものが多かった。たまたま松平定信が上京の途次木曽を過ぎてその施政を見、村民が良由を神の如く敬うを知って之を尾張徳川家の宗睦に語ったので、宗睦は特にこれを褒賞した。定信は良由の治績に感じて之を幕府に採用しようとしたが、宗睦は良由の〓を惜んで謝絶し、自ら尾張表に招じて行政にあたらせようとした。しかしこの事は異例に属するので、天明八年、幕府に願ってその子良喬に家督を譲らせ、良由を隠居せしめて後尾張表に召し出した。
尾張表では良由を年寄役に据え、遇するに知行三〇〇〇石を以てした。寛政五年叙爵して従五位下伊勢守に任ぜられた。在職一〇余年、尾張表における施政上の功績もまた大なるものがある。良由は後宗睦に従って江戸定府となり、市ヶ谷合羽坂に住していた。
寛政一〇年致仕、隠居後も在勤中の功によって特に五〇人扶持を賜る事となった。良由は、幼時より学を好み、服部元喬、大内熊耳に師事し、蘇門と号し、その居を清音楼と称した。晩年文を以て交る所幕府の古賀精里、尾張表の細井平州、水戸の立原翠軒、久留米の樺嶋石梁、福山の菅茶山等の人々があった。著書に清音楼詩文集、忘形集等がある。
文政六年正月一六日没す。