一五代 山村良醇 甚兵衛

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 文化一二年一二月二四日生。弘化元年家督。嘉永二年槻(けやき)が停止木に加えられた。前の五種の木と合せて、六木が停止木となったわけであるが、一般ではやはり多年のいいならわしで五木と称している。
 万延元年に尾張表は第一〇回の谷中巡見を行った。これが最後の巡見であった。慶応三年大政奉還。明治元年一〇月二六日 朝命によって関所を名古屋藩の槍士隊に引渡すこととなり、山村氏守関の任は解かれた。翌二年正月名古屋藩は福島に木曽総管所を置き、吉田猿松をその長官として木曽を支配せしめ、山村氏を支配立会とした。この年の二月六日、福島の関所は遂に廃されるに至った。
 同年六月一七日、名古屋藩は版籍を奉還したので、山村家もまたこれに従い知行を返上する事となった。ここにおいて山村氏慶長以来の守関及び木曽支配の任は全く解かれたのであるが、木曽山林の保護並びに木曽の統治上に残した山村氏の功績には大なるものがある。
 明治三年三月、良醇は美濃国笠松県貫属に編入され、米一四二石五斗を給せられる事となった。その一二月名古屋藩は名古屋県となり、木曽総管所は福島出張所となった。同四年八月 名古屋県は廃止され、木曽は伊奈県となった。
 明治一六年七月二四日没す。