木曽衆・九人衆

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家康は関ヶ原役直後の慶長五年一〇月、山村良候(良勝の父・法号道祐)を石川光吉にかえて、木曽谷代官に任じ、木曽谷と木曽川・飛驒川の支配にあたらせた。
 与えられた所領一万六二〇〇石は、木曽衆で分領した[二〇頁、第一節の七、中山道沿いの諸村と木曽衆を参照]。
 その内、山村甚兵衛・千村平右衛門同心の三二〇〇石は、両人同心の関東八騎衆に主として分与したものである。関東八騎衆とは甲斐国武田勝頼の代に浪人して木曽義昌の家臣となって新参衆といわれ、義利の代に再び浪人し、関ヶ原役で木曽討入りに戦功のあったものである。
 この同心分は寛永二年九月に、千村九右衛門重秀(助右衛門の子)と、原藤兵衛貞武に各二〇〇石ずつ分け与えられたので、宗家山村氏・千村氏の同心分は各一四〇〇石に減少した。