苗木領においては、年代的には享和頃から披官という言葉が散見されるところから、この頃より制度化されたものであろうと考えられるが今後の課題である。苗木領内の披官については大別して村方披官と、全村披官であった塩見披官とに区分できる。文化一〇年(一八一三)の「村方御披官」によると一〇か村一二名、文政五年(一八二二)の「村方披官覚」九か村一一名、天保一二年(一八四一)の「村方役人名前帳」一二か村一四名、弘化三年(一八四六)「分限帳」九か村一一名と多少、数的にまた村名に変化はあるが、それ程多い数ではない。しかも、蛭川村の一名は中間披官と記されている。この中間披官は蛭川村の金十郎の家筋で、大坂御加番や、駿府御加番に従い精勤したので、足軽披官に取立てるべきであるが、中間披官の形が失われるからとて一家のみが存置したとある。また弘化三年は、田瀬村の一名が足軽披官と記されている。これは、田瀬村長百姓山田伝右衛門が天保三年「……(略)且亦御勝手向出精ニ付 足軽披官申付候……」とあるように勝手向出精によって取立てられていることがわかる(Ⅰ-16表)。
Ⅰ-16 苗木領内披官員数
こうした披官となる家筋については、長百姓、庄屋後見人、新田開発、立山の山廻り等の功を賞するため披官を仰付けられ、多分に政策的に与えられたもので、代々世襲となっているのが一般的である。そして、披官となった家筋は、村役人と同等又はそれに準ずる家格を有し、それぞれ苗字・帯刀、上下御免となっているところが多い。