塩見披官

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加茂郡飯地村塩見[八百津町]には、塩見披官といわれるものがある。いつ頃からおかれたかは判明しないが、「覚秘集」(苗木遠山家)の文化三年(一八〇六)塩見披官申渡の写をみると、軍役人数として五〇人ときめられている。一番組二五人、二番組二五人である。そして扣(ひかえ)組がある。披官組頭河方惣右衛門父子は右五〇人の人数外となっている。この五〇人分は御用の筋は何時でも出役できるよう、またその節の装束は御紋印張笠を用い、大小股引、胸当、草鞋にて出るように決められている。披官は二〇歳から五〇歳迄であるが身体が丈夫であれば、二〇歳以下五〇歳以上でもよい。また、壮年の者でも病身虚弱では御用にたたないとしている。
 出役に当っての持物について、所持の鉄砲一〇挺を持参すること。雨具は蓑を用い、笠は渡してある張笠晴雨共に用いること。夜燈は松明を用いること。荷物は琉球包、渋紙包にてもよいこと。五〇人の名前は正月的之節申出ること。若し病気或は差支えあるときは、扣組より出すこと。鉄砲的呼出し見分については、隔年に一度二五人ずつ、しかし五〇人一緒に見分するときもあること等申し渡されている。
 塩見披官は軍役の中で、どんな形で編成されているかについては、文化三年(一八〇六)の「極秘要用積大概」によってみると、組頭共二六人が、足軽役として出ており、その隊列の中では、鉄砲一〇挺、手明足軽一〇人使番、手代等の役職についていることもわかる。そして披官は苗字帯刀が許され、助郷役は免除されていた。