地方(じかた)知行とは領主が自分の領分を、実際の土地と、そこを耕している農民をつけて家臣に給与する制度である。従って家臣は自分でその農民を支配し、直接年貢を取りたてていったのである。このような地方知行が苗木遠山家の場合どのようであったかは、「給人の内 棚橋家は地方ニテ知行被下高七五石六斗六升六合六勺余 物成米二二石六斗四 場所は田瀬村宮脇 高山村木積沢 蛭川村ニテ壱ヶ所 三ヶ所也 御高之内永代引免ニ成ル……」(「苗木村旧上地村明細記幷遠山家年中行事 藩士旦下々迠掟 其他雑書名産荒増記」新田家所蔵)とあって棚橋家は、明治維新まで地方七五石余を世襲してきていたことがわかる。しかし、この地方知行が本来的な意味における地方知行とするには問題があるかも知れないが、広義の地方知行と考えてよい。棚橋家だけが給人の中でも地方を許されている。この間の事情と他には地方取りがなかったのか問題が残るので、この点少しさぐってみたい。まず棚橋家だけが地方取りを許されたその理由については「御給人通諸士名鑑」(文政一〇年)の棚橋家の項に、二代秀友が幕府より駿府城、本丸造営用材搬出を命ぜられた(正しくは慶長五年=一六〇〇)用材を駿府に送ったところ、苗木遠山家割当分の用材不足が問題となった。その時山方足軽として用木搬出の用掛りであった棚橋十右衛門(田瀬村宮脇百姓出身)が前もって用材一本一本に隠印をおしていたので、それを証拠に全部揃え、殿の危機を救った功績によると記している。その功によって、足軽から家老にまで出世し、そして田瀬村宮脇、高山村木積沢、蛭川村の三か所で高七五石余を与えられたということである。
このように遠山家に特殊な功績のあった棚橋家には代々地方知行を認めているが、他の給人格についてはどうであったか、遠山家の譜代の家臣であった小倉猪右衛門、纐纈与兵衛の記事の中に、地方二〇〇石、或は一三〇石下されたと記され地方給付の事実を裏付けることができる。
これらの記録によって、少くとも遠山家創立の当初は、地方知行制が存在したことが窺われる。しかも地方知行が与えられた小倉、纐纈氏については、初代友政に従った譜代家臣であったことなどから、地方知行を与えられるものは、特殊な忠勤の者で譜代家臣に与えられていることがわかる。しかしこれは一代限りで相続は許されなかったようである。そして苗木城成立後の給人には地方知行制は採用されず、蔵米知行制がとられていることが「御給人通諸士名鑑」によってうかがうことができる。