苗木遠山家が家中から借上米をはじめたのは文化一一年(一八一四)であったようである。その後文政一〇年(一八二七)に苗木領主友壽が家中一同へ「直書」を出したが、その中に文政九年上米を申付けた事実が窺われる。そして文政一〇年には一たん中止されている。その後天保四年(一八三三)三か年間の復活が申し渡されている。
では上米はどのように行われたか「御借米覚帳」(文政九年?)によると、上米の割合は在所と江戸定府により異なることがわかる。在所に勤務する者の方が江戸定府の者より上米の割合が高率になっていることは生活のちがいによる差であろうか。
給人のうち、在所の一三〇石の知行取りについて具体的にみると、上米率は七割七分となっている。従って物成高が三つ成で支給されるとすると、一三〇石の給人の物成高は三九石となり、上米高が三〇石三升となり、これだけ減額されるので、その収入は八石九斗七升となるわけである。
しかし実際には、借上げするかわりに別に二人扶持ずつ与えられたので、実質収支は変わって来る。一人扶持とは一日五合の割で一年分の玄米を受給するものであるから米換算高は、一石八斗となる。よって二人扶持は米に換算すると三石六斗となる。従って一三〇石取りの給人の全収入は借上米残の八石九斗七升と二人扶持の三石六斗を加えて一二石五斗七升がその手取りとなる。
その他中小姓・徒士についての上米はⅠ-22表のとおりであるが、足軽については、切米は全部、但し三石の者へは、切符金両、他は五斗に一分増の割合で下付されている。
このようにそれぞれに大幅な借上げが申し渡された。また江戸に定住する者についてもⅠ-22表のように定められたが、在所より低率であったことが特色である。江戸勤番の折には、その期間中は全く借り上げなかった。
今、かりに定率による上米の米のみ計算してみると給人層では総物成六五四石に対し、上米合計四一六石六三四が借上げられることになり、その割合は約六四%にあたる。
次に中小姓・徒士通の場合についてみると、中小姓通は四七名、徒士通は五三名で上米のみを計算し合算すると米二六五石七となる。次いで足軽・中間は、石取足軽・中間はすべてを上米として借り上げられ、そのかわり給米に応じて切符金が下付されている。この結果、米にして約九五〇石が、借り上げられ苗木遠山家財政は一時的にせよ緩和されたことは事実であったと考えられる。また家中の不幸の節の弔慰金は給人一両三分・中小姓一両・徒士格三分、ただし七歳未満の小児は半額と定められた。
Ⅰ-22 家中の上米