家臣団の統制

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支配が進められる上で、中期以降は領主の財政の緊迫と家臣団の窮乏から家臣団に対する統制が強められた。その重点となっていることは「質素」「倹約」「簡略」への励行であった。今その各時期における統制の概略についてみたい。
 苗木領の確立期においては、領主が家臣に対し、勤方を規定する傾向が強く、家臣団の秩序を保とうとしたことが延宝三年(一六七五)九月、四代領主友春が郡奉行東庄右衛門に対して下知した「覚」によってうかがうことが出来る。
 倹約的統制が行われるようになってくるのは、元文期からで家臣の奢侈をいましめたものである。元文五年(一七四〇)九月家中及びその家族に対する衣服について「定書」を出し二〇項目に及び、各階層により衣類の区別を厳しくして、家臣団の規律を強化したものである。しかも下男、下女、小者にいたるまで、その励行を督促しているのがうかがわれる。
 その後、文政一〇年(一八二七)、一一代領主友壽は「友壽御直書」をもって家中各層に対して倹約方を申し渡している。この「直書」によると、苗木遠山家は財政並びに家中が困窮していたので倹約令を度々出した。また臨時の費用がかさんだので去戍年(文政九年)家中一同に上米を申し付け、これによって借財も軽くなったこと、また代官の努力によって村方からの拝借金(米)も多くあがった結果財政事情も好転し、これからは倹約を専らにせよとしている。そしてこのような苗木領内の動向から一一項目の条目を示している。その内容は勤方、質素、衣服類の統制、奢侈の禁止等に及んでいる。ついで文政一三年(一八三〇)には「側向之者ヘ申渡候書付」という全条一九条からなる衣服に関する制限を側向の近習、茶道、坊主など申達されている。これは、恐らく文政一〇年の「直書」の趣意に基づいた衣服の制限を、各格にわたって通達したものと考えられる。
 その後については、嘉永六年(一八五三)一〇月、領主友祥(後友禄)が「以直書諸士一統之申聞候書」として申達している。その内容には、倹約に関するものと、その中の一つ、家中の衣類制度について特に規定したものである。倹約に関するものは前書きと、四か条から成り立っている。前文は幕府の倹約令に基づいて支配にどのように反映させようとしたか、領主の施策をうかがうことができる。四か条の内容の第一条は、外国船の来航等大変な時節であるので、武芸鍛練を怠ってはいけないことと、財政窮迫しているので、その解決策はきりつめた衣食住よりないとしている。第二条は家中の衣服制度について述べられ特に質素・倹約を心得よ、第三条は音信・贈答・饗応などの奢侈を抑制、第四条は武士の礼節について述べている。後段は前文中の一つ家中の衣服制度について特に規定したもので、二三条からなっている。これによると家中の衣服は安政三年(一八五六)より綿服に統一されたことがわかり、さらにこのような基本的立場から給人・中小姓・医師・徒士などそれぞれの衣服を規定し、また道中供方や江戸・在郷の服装についてきめ、決して驕奢の品を用いず、質素の品を用いるようとしている。
 こうした倹約令に対し、嘉永七年(一八五四)五月、給人・中小姓・徒士の三格で、それぞれの格において申し合わせを行なっている。給人通の申合帳は「嘉永七甲寅年五月今般以御直書被仰出候ニ付申合一件」中小姓および徒士通は「嘉永甲寅年五月申合帳」となっている。給人通は全九か条からなり、衣服・日常生活・普請・冠婚葬祭等質素倹約を守ることを申し合わせている。
 給人通の申し合わせに対し、中小姓通・徒士通は衣服等について、中小姓通は三三か条、徒士通は三五か条にわたって具体的に申し合わせている。衣服の材料・道中在所の衣服・婦人の帯・召つかいの衣服・諸祝事・普請・祝儀贈答・諸振舞・葬式見舞等などがあげられている。
 このように後期になるに従って、遠山家の財政との関連において生活面の統制、抑制が行なわれたことがわかる。