幕府が大名をして江戸に屋敷をおかせ、本国と交代に在留させる制度で幕府の大名統制策の中で、もっとも重要なものであった。しかも大名にとって参勤交代或は在府に要する費用は莫大なもので諸大名の財政的疲弊は大きいものがあった。従って費用の節減のためにも、しばしばその規定がもうけられた。
享保年中の「萬代不易御定帳」によると、寛文六年(一六六六)江戸往来の道中日数を規定し、三月より八月までは六泊、九月より二月までは七泊として、給人の宿泊料は上等一五文、下等は一〇文とし、その供は百石以上は四人、一三〇石以上は五人、百石以下は三人に制限した。また江戸詰夫銀は一日一両二分とし、なお江戸に下向する侍は、八月より暮までの切米・取替金は中小姓が二両、徒士通一両三分と規定している。
従来は、往来滞在に必要な日用品その他一切の荷物は制限なく運んでいたが、慶安三年(一六五〇)には「江戸上下荷物定之覚」即ち小荷駄の量についての規定を設けた。これによると、年寄は乗懸ともに二駄、給人と小姓は同じく一駄、歩侍は三人で一駄、足軽は六人で一駄、中間・下男は八人で一駄と定めた。そして享保七年(一七二二)には勘定所より、家老・用人の江戸供或は何事によらず江戸往来するときは駕籠一挺、付荷一駄との覚書が出された。また参勤交代以外でも道中での旅籠銭或は昼食代等その規定が定められている。