幕府が軍役を規定したのは元和二年(一六一六)が最初で、次いで寛永一〇年(一六三三)さらに慶安二年(一六四九)寛文一〇年(一六七〇)と改定し、諸大名、旗本の軍備内容を指示した。このことについて「当家軍法定」(遠山家文書)には「公儀御軍役御定之儀ハ 元和二丙辰年六月 寛永十癸酉年二月 寛文十年庚戌六月右度々被出候 高壱万石軍役 馬乗拾騎 弓拾張 旗三本 鉄炮弐拾挺 鎗三拾本 但長柄共 右御定之員数可差出儀は 勿論ニ候……(略)…於当家軍制ハ雲林寺殿(友政)以来之旧例幷興雲寺殿(友貞)明暦中之積書を以 大格之定法 末代之亀鑑ニ可相守条 家中上下何も其段相心得……」とあるように苗木遠山家では、幕府の法令に従わず、初代友政以来の旧例と三代友貞の明暦三年(一六五七)の軍役人数を苗木遠山家の軍制のよりどころとしていくことを明らかにしている。では友政以来の旧例については、馬乗二〇騎、弓二〇張、鉄炮三〇挺、旗五本、鎗三五本・但長柄共しかしこれは、近国出陣の折りで、遠国出兵の節は御定之軍役ということで員数の増減を図っていたことが「当家軍法定」によりわかり、更に城主の在城・江戸参勤による留守の場合についても規定し、油断なく日頃の心掛けが大切であることを強調している。従って苗木領遠山家では、幕府規定を上廻る強固な軍制をもって臨んだことがわかる。