この二つの事件の経過を概説してみると、鳥羽城請取とは、延宝八年(一六八〇)志摩国鳥羽城主内藤和泉守が城取上げになったので、友春(五代目)が八月二二日出発、八月二八日御目付役深津弥市、青山善兵衛の立会いで、土方市正と共に城を請取り、翌年四月一四日まで在番し、土井周防守に渡すまでのことである。
岩村城請取りと在番とは、隣領岩村領主丹羽氏音の元禄一五年(一七〇二)家中騒擾が起こり、氏音は家中不取締りの理由から、半知処分を受け、越後国に移封を命ぜられることとなった。幕府は同年六月、堀大和守と、苗木遠山和泉守友春の二名に、城地の接収を命じた。友春は七月二九日、岩村城を請取り、一〇月丹羽氏のあとへ石川能登守が入城することを知らされ、引渡しを完了するまでの三か月の間在番した。
この両度の出役の規模はどの様であったか、「萬石軍用」と「濃州岩村城請取 志州鳥羽城請取右之節拔書」によると、Ⅰ-28表、Ⅰ-29表のとおりである。
Ⅰ-27 鳥羽城・岩村城請取出役規模
Ⅰ-28 鳥羽城・岩村城請取軍役
Ⅰ-29 岩村城引渡役人人数
この軍役の実際は、すべて幕府の定めた一万石の軍役と同一であるので、公式の本役によって勤役したと考えられる。
しかし岩村への場合は一二騎となっている。これについては「岩村城請取在番諸事覚書」六月二九日の項には一〇騎とあり「濃州岩村城請取拔書」の行列覚から調べると一二騎となっている。従って記述に問題があったのか、近国であったのでこの様な措置をとったとも考えられる。
また在番期間中の出役員数については「和泉守渡方人数役人覚」によると、岩村城引渡役人の人数として一四九名があげられている(Ⅰ-29表)。このことは在番期間の人数と考えられる一つの手掛りとなるのではなかろうか。