勤番

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大名は将軍に対し、知行の確認を受けるかわりに、領知高に応ずる軍役義務のほか、大坂城、駿府城の加番、土木普請役、江戸の消防、江戸城の警備などの負担があった。このことは領主と家臣との関係も同様で、家臣は領主に対し、基本的な忠誠義務は軍役で、その他の負担にも答えた。
 苗木領遠山家が諸負担として勤めたのは、大坂加番、駿府加番を初め、幸橋門、呉服橋門、日比谷門、半蔵門、鍛冶橋門、常磐橋門の諸門番が主であった。普請としては、江戸本丸奥間、江戸城石垣などがあり、増上寺仏殿の火の番を勤め、江戸期を通し、延約四〇回ほどの負担を勤めている。
 こうした勤役の場合はどのような役職で行われたか、寛文一一年(一六七一)「信濃守様御代駿府被蒙仰候節御供人員」によると、Ⅰ-30表のような役職と人員が供をしていることがわかる。

Ⅰ-30 寛文11年駿府加番役職

 士分だけでみると、約一三〇(一二九)名中五三名でまた一一代友壽の駿府加番享和三年(一八〇三)は分限帳記載人数一三四名中六二名出役しているので、出役員数は約半数に近いし、役職名も平時の役職名とほとんど同じである。唯一つ釈然としないことは、同年代の分限帳と比較し、平時の役職との関係をみたが、給人層はほぼ同役職で出役しているが、中小姓、徒士層になると、分限帳にその名前すら見当らないのが大部分であることは、何を意味するか不明である。
 また大坂加番等についても、苗木領のような小大名にとっては、経済的にも、また農民にとっても、足軽、中間、或は家中の臨時抱えの家来として徴発され、その負担は重かった。五代友由の大坂加番の折には、加茂郡内九か村(高一四一五石)から、四八人が徴発され、うち一六名が大坂勤番となっている。こうして農民にとって大きな負担がかかっていた。