幕府は、河川、堤防、道路の修復、災害復旧など、国を定め、その石高に応じて大名に国役を課した。その最も重要なものが、河川の修築の場合で、国役普請ともいった。苗木領が負担した普請役の主たるものをみてみると、慶長一六年(一六一一)二月、家康が上京する際、長良川に船橋を架けて通行することになったので、その架設材料である白口藤、ねた木、竹、ねこた、縄の類を美濃の大名、旗本に割付けた。「亥年(慶長一六年) 濃州江渡 美江寺 呂久船橋道具割帳」によると、一万五百石余の苗木遠山久兵衛へは、百駄の白口藤、四三束の竹を割付けられたことが記されている。また元和元年(一六一五)四月には、白口藤百駄、竹一〇束(「墨俣橋之道具割」)を割付けられた。元和三年(一六一七)将軍上洛による河渡舟橋道具割として、白口藤百駄、竹五四束(「上様巳之年 御上洛之時御舟橋道具之割帳」)。寛永三年(一六二六)四月同じく墨俣舟橋道具割として、白口藤、五七駄などの割付けを受けている。
木曽、長良、揖斐三川をもつ美濃国においては、三川の治水工事への課役である国役普請がしばしばあった。こうした工事には、美濃国内に領知する大名、旗本、幕府直轄領が規定の普請夫役を負担している。寛永一三年(一六三六)「子年御国役堤普請人足遠近之割荷帳」によると、「一壱万五百弐拾壱石五斗二升 堤所へ三里半 遠山刑部少輔(秀友)此人足三千七百八拾八人 但高百石ニ弐人役日数十八日分」とあって、普請場所への距離、課役基準 就役日数 延役夫人数が明記されている。また寛永二一年(一六四四)「苗木組国役普請人足覚」によると、三、一五六人(高百石に一人役、日数三〇日)。さらに明暦元年(一六五五)「濃州堤人足割付帳」によると、
一 高壱万五百弐拾壱石五斗弐升 遠山久太夫(友貞)
此人足弐千六百三拾人半 但百石ニ弐拾五人役
此檜曽木壱万五百弐拾弐本[長弐間末口指渡三寸]但壱人ニ付四本宛
是ハ井ノ子乱杭並枠立木之用出し
の国役普請があった。
これらの人足役は当然苗木領が負担するが実際には、この人足は領内の農村へ課せられ、農民には大きな負担となって来た(第二章検地・貢租参照)。