文字通り新田村であるが、もともとこの一帯は大野村であった。元亀二年(一五七一)夏、一か月余にわたる雨でこの地の各洞が崩壊し、土砂が流出したため田畑を失った農民は他村へ移住し、この村は消滅した。
その後、慶長九年岩村領主松平氏によって再開発がはじめられるが一時中止となり、更に下って慶安元年(一六四八)再開され、青野村開発の実績がある鷹見弥左衛門の子、弥平次と岩村屋敷から入った堀井嘉平次が中心になって進められた。この新田開発に参加した人をみると(第四章第一節用水・新田開発)、嘉平次に従って岩村より入った三名をはじめ、釜戸村平山、阿木村見沢、冨田村、飛驒国大野郡、川上村、竹折村、佐々良木村、三河・越前などなど、各地から開発に参加し約三七戸になっている。
これがもとになって検地を受け、元禄一六年には阿木村枝郷広岡新田として、村が行政的にもはっきり位置づけられていく。この広岡新田の中心者の一人の堀井嘉平次と他の農民の見取高を比べてみると、嘉平次の二・四石に対して、二斗~一・一斗九名で小農であり、大部分は更にそれ以下である。
開発に力を入れた岩村領の使命を背負って嘉平次が庄屋となり村づくりをはじめたのだから領主主導型ではあるが、耕地を求めて各地から広岡に入った人たちと、村つくりを進めるという一致点があったからこそ、広岡新田という大きな新田村ができていったのであろう。
元禄一六年阿木村差出帳によると、藤上村、野田村、八屋砥村、田中村などの名前のもとに寺社名を報告しているのは、開発・成立のことなる中世のむらを意味している。例えば安岐郷八屋砥村と呼ばれたものも中世の村をいっているのではないかと考えられる。
同じことは中津川村の村高の示し方にもあらわれており、町分、中村、実戸、この村、恵下、徳原、松田、川上村などにわけられている。だから近世の村は、こうした中世のむらを統合したところに成立している。
同様のことが茄子川村の場合ではどうなっているかというと、正保五年(慶安元年・一六四八)蔵入分(尾張方分)をみると諏訪の前、野田、坂本、町分、中切、下新井とわけていて、この中の諏訪の前は仁左衛門、伝左衛門、市左衛門、孫左衛門、甚左衛門の一族五人が来て開発したと伝えるように、それぞれその集落の成立を異にしておりその中に一人の中心者がいたと考えられる。