中津川市内関係分の近世の大村(村高千石以上)である阿木、中津川、茄子川はいずれも集落が統一されて近世の村となったと考えられる。代官の項でもふれるように、村分代官や庄屋兼務代官などという性格で、中津川村の丸山久右衛門、堀尾作左衛門、市岡長右衛門、茄子川村の安田作十郎など、これらの地侍または土豪ともいわれるべき人たちを中心に山林の共同使用、用水による生活の一体化、氏神信仰にみられるように地縁的な結合ができて、中津川村、茄子川村など近世初期の村は成立した。
この近世の村の成立をよりはっきりさせたのが、天正一七年(一五八九)の秀吉の検地であり、荘・郷などの称を廃して、集落の分割統合を行い村と呼び、行政及び徴税の一単位として統べるようになった。
この制度は江戸時代に至り、幕藩体制を支える基礎単位としての「村」として受けつがれ村は将軍から大名たちに与えられた領知(知行)の単位であり、また庄屋を代表責任者とし、本百姓(高持百姓)を生産の中核として年貢や賦役を課する単位であった。
江戸幕府は、正保元年(一六四四)諸国に令して地図をつくらせ、田畝を調べ石高を録上させている。そしてこれを元禄一五年(一七〇二)、天保九年(一八三八)に重修している。