村高のない村

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湯舟沢村のことである。慶長一一年(一六〇六)山村良勝が湯舟沢村の年貢詰状を、林六郎左衛門(馬籠宿)に渡した中に(市史・上巻六四三頁)
 
     辰巳両年(慶長九・一〇年)之湯舟沢年貢 用相究仕詰之事
     一 拾五石五斗八升者(ハ) 辰ノ有米本分
     一 三十四石弐斗者(ハ) 巳ノ有米
 
 と江戸時代はじめの年貢をあげているが、村高は書かれていない。慶長一八年(一六一三)に郷帳調製があるが、湯舟沢村は年貢米三〇石(本年貢なし)でやはり村高の記事はない。
 木曽谷中の検地は、享保九年(一七二四)で新しく年貢が定められたが、村高付でなく検地結果で米の有高を示すものであった。木曽の年貢は比較的低率であり、そのかわり夫役の負担が大であったというが、この検地で木曽谷総年貢は二五九二石余となり、慶長一八年の一六八二石余より大幅に増加し、これより幕末までは大体二二〇〇石から二五〇〇石の範囲であった(木曽福島町史)。
 万延元年(一八六〇)湯舟沢村は六九石一斗五升一合の有高であった。
 湯舟沢村は、享保年中で約五四戸、人数四三八人の村であるが、二戸の有力農民が庄屋役を江戸時代を通してつとめている。